文系と理系、その発想の違い

 「世の中は、文系的な(帰納的な)発想を多くする人と、理系的な(演繹的な)発想を多くする人に分けられる。」こういうテーマで話をしてみたいと、私はつねづね思っていました。これは、毎日観ているテレビとか、過去に私が経験したこととかに大きく関わってくるテーマです。別に気にしなければ気にしないで済んでしまうことですが、気になると『とことん』気になることのようです。だから、それほど気にせず、「世の中には、そんなこともあるのかなあ。」とか「そんな見方もあるのかなあ。」くらいに気楽に考えて下さい。こんなことを私が気にして書いたとしても、そのことによる皆さんの何らかの行動変容を望んでいるわけではありません。今まで通り、サラッと見過ごして頂いて、いっこうにかまいません。もっとも、このことを少しでも知っていると『目から鱗(うろこ)』なのかもしれませんが…。(これから私が述べることには、異論や反論があると思います。私は、どんなにそれがあっても、それらを否定はいたしません。どうかご自由に考えてもらって構わないと思っております。)
 それでは、もう少し説明を進めましょう。文系的な発想をする人は、世の中一般に意外と多いと私は思います。私自身、素質も才能もない、何処にでもいるありふれた文学青年でしたし、H大学の文学部を卒業していますから、同じ穴の狢(むじな)です。したがって、どんな発想を普段しているのかは、わかっていたはずなのですが、あまりに普段それに慣れ過ぎていて、その特徴をあまり意識しないで生きてきました。そんな時、たまたま身近に理系の人がいて、反(そ)りが合わなくて文句を言われたり、違和感を指摘されたり、考えの違いを教えてくれました。
 個々の細かな事実や事例に目配りして、それをまとめ上げるのが、文系的な発想をする人の特徴です。まとめ上げたものを法則化あるいはルール化して、全体的なムードや流れを作り出します。つまり、帰納(きのう)的な考えであり発想です。そうやって、周りの人々の思いを共感させて、集団全体を動かしていくこともあります。テレビや新聞などのマスコミに、文系的な発想をする人がもともと多いのは、そういうことが理由としてあるからかもしれません。
 しかし、個々の細かな事実や事例の中から少しでも例外が出てきて、全体的なルールやムードが壊されたり成り立たなくなると、それをあっさり捨て去ってしまいます。そして、その時点でわかりうる個々の事実や事例に改めて目配りしながら、新たなルールやムードを模索しながら、新たな考えや流れに統一していきます。やはり、これも、帰納的な考え方の手法であり、発想法であると言えます。『改革』という言葉を好きな人が多いのはそのせいかもしれません。
 それでは、次に理系的な発想をする人はどうなのかを述べてみましょう。私は、基本的には文系の人間でしたが、先にも述べたように、理系出身の人から勉強や仕事の上で意見や苦言を聞く機会がありました。その意見や苦言に基づいて、私なりに学んだ理系的な発想をまとめてみました。
 基本的な原理や原則がまず頭にあって、そこから出発して考えが発展するのが、理系的な発想をする人の特徴です。最初に「確からしさの高い」ルールや法則があって、それに従い基づいて、個々の細かな事実や事例に対応します。それに成功すれば、その元になったルールや法則の『確からしさ』が増して、さらに応用範囲が広がって、考えやその成果が発展していきます。すなわち、それが演繹(えんえき)的な考え方であり、発想法なのです。文系の人から見ると「理系の人は何か信念をもっているらしい。」とか「何でも答えてくれる物知り博士だ。」と感じられることが多いようです。それは、理系的な発想をする人がそのような特徴を持っているから、そう見えて、そう感じられるためだと、私は思います。
 しかし、今までのルールや法則が成り立たない事実や事例が出てきた場合は、どうなるのでしょうか。文系の人から見ると心配になるところですが、実は心配ご無用です。理系の人は、そうしたことに出くわすと、これまでのルールや法則を一部修正して、これまで当てはまらなかった特異事例を当てはまるように丸め込んでしまうのです。そうして、これまで従ってきたルールや法則を捨て去ることなく、修正して『確からしさ』をさらに増したルールや法則に基づいて、考えを発展させ、そうしたルールや法則を適応できる世界を広げていきます。文系出身の人が余り得意としない、演繹的な考え方であり発想法です。そして、文系的な発想では到達ができない(ほとんどの人が思考の過程で挫折してしまう)ほどの、複雑で高度な、すなわち専門的な科学的知識を発展させることができるわけです。
 文系と理系、どちらの発想が優れているのかということですが、その優劣はつけがたいと思います。確かに、その発想の違いによって、考えや思いや意見のすれ違いはあるにしても、あるいは、その思い違いがちょっとおかしなことになっていたり、例えば肩すかしがあったとしても、私たちの日常ではそれほどお互い傷つかないで、うまくやってきているというのが現状だと、私は観察しています。
 今回は、その概要的な説明に終わってしまいましたが、実際には面白い事例がいっぱいあります。それについては、またの機会に日を改めて、私のブログ記事で書いていきたいと思っております。