時おり気になっていたアイツとアイツの話

 去年の10月頃のことです。地元の古本屋さんで『基礎分子生物学』という本を見つけて、500円で買いました。この本の定価は、裏表紙を見たら2800円+税でした。なぜこの古本を買ったのかと申しますと、ウィルス学や分子生物学に興味を持ったからです。テキストが欲しかったのですが、専門書は値段が高いのが常識です。そんな時に、たまたま古本屋さんで、その本を見開くことができました。そのページに『DNAウィルスの増殖』というイラスト図が描かれていました。それで、(いろいろ難解なことも書かれていそうでしたが)私は500円でその本を買ってみることにしました。
 その『DNAウィルスの増殖』イラスト図については、「これは、どこかで何度も見たことがあるな。」と思いました。私が小学生の時に学習百科事典で見つけた『大腸菌に寄生感染するT2ファージ』の図解にそっくりだったのです。また、高校時代の生物の教科書でも、それに似たようなイラスト図を見たことがあります。学習百科事典でも教科書でも、1ページ内の3分の1スペース位しか費やされていない小さな図解でした。けれども、妙に私の記憶に残ってしまう『イラスト絵』でした。
 4つの角が丸い長方形が『大腸菌』で、それよりも小さめの無人着陸艇みたいな形の『T2ファージ』がその大腸菌に付着します。すると、付着した『T2ファージ』から『大腸菌』の内部にDNAが侵入します。そのDNAが大腸菌内で複製や転写して、さらにたんぱく質も合成されます。やがて(といっても、短時間ですが)、その大腸菌内でT2ファージが増殖を繰り返して、大腸菌の細胞膜を破って外へ出ていきます。
 大腸菌というと、人間の大腸から排泄(はいせつ)される汚いものというイメージがあって、それが内部から破壊されたからといって、何てことはない、というのが私の持っていた印象でした。T2ファージの絵は、無機質的なマイクロ・ロボットみたいに描かれることが多くて、微粒子に近い微生物という感じがしました。(一般的に、ウィルスは細菌(バクテリア)の小さいものと考えてしまいがちですが、それは間違いです。ウィルスには細胞膜はありませんし、高分子タンパク質の殻にDNAまたはRNAすなわち核酸(遺伝子の化学的分子構造体)が包まれているというイメージの方が当たっています。)
 「大腸菌に感染して増殖するT2ファージ」に対する私のイメージは、これまで一貫していて、「これは自然のメカニズムだけど、何にも役に立ちそうにないな。」というものでした。つい最近まで、そう思っていました。先日、ネットで検索してみたら、「大腸菌に感染するT2ファージが怖い。」という意見が多かったので、私は驚きました。こんな役にも立ちそうにない自然のメカニズムが何で怖いのか、私には理解ができませんでした。ただし、最近になって知識が増えてくると、「何の役にも立たない」という考えは、私の誤解であったことがわかりました。
 ところで、理学博士の太田次郎さんはその著書『文科の発想・理科の発想』の中で、大腸菌について、および、大腸菌とファージによる遺伝学研究の発展について、次のようなことを述べていらっしゃいます。以下に、その引用を含めて、しばらくその内容を紹介いたしましょう。まず、大腸菌についてですが、次のとおりです。
 「一般の人に大腸菌といえば、きたない物の代表ととられがちである。確かに、海水浴場などが遊泳に適するか否かの基準などに大腸菌が使われ、海水中に一定量以上が検出されれば、そこは汚染されていると判断されて、遊泳禁止になる。人間を初め哺乳類の大腸の中には多数の大腸菌が寄生していて、排泄物といっしょに体外に出されるので、それが多ければ排泄物で汚染されているということになる。」
 ただし、「このことと、大腸菌が病原菌であるということとは関係がない。よく大腸カタルは大腸菌がもとでおこるなどと考えている人があるが、実際にはそうではないらしいし、大腸内に寄生している大部分の大腸菌は、病原性が全くないか、非常に低い。また、大腸菌が腸内でどんな役割をしているかについても、不明の点が多く残されている。」
 「(中略)現在進展しつつある遺伝子工学でも、主役の一つは大腸菌である。インシュリンインターフェロンなどの有用な物質を生産するために、その生産を指令する遺伝子(DNA)を、大腸菌の中に入れて、大腸菌にそれらの物質をつくらせようとするのが、遺伝子工学の主流となっている。」ということは、私が『何の役にも立たない自然のメカニズム』と考えていたことが、全くの誤解であったことになります。
 「このように、大腸菌は、一般の人がいだかれるイメージとは異なって、遺伝学者にとってはなじみ深い生き物の一つであり、世界各国の研究室で、ごくふつうに多量に培養されている。また、その変わり物(突然変異体)の中には、人体に入ってもその中に定着しない株もあり、安全性もほぼ保証できるといえる。」
 「なぜ、大腸菌が遺伝学に使われるようになったのだろうか。遺伝の研究は、すでに述べたように、メンデルのエンドウから始まった。そして、次に登場したのは、ショウジョウバエという小さなハエである。ショウジョウバエは、現在でも集団遺伝学や発生に伴う遺伝などの研究材料として盛んに使われている。(注釈・この著作は1970年代のものです。)ショウジョウバエの後をついだといえるのは、アカパンカビというパンやトウモロコシの食べかすなどにつく赤色のカビである。そして、そのカビの次に大腸菌が使われるようになる。」この著者の記述によると、遺伝学の研究の必要に応じて、その研究材料の増殖がより速いもの、より取り扱いやすいものに変わっていったのだそうです。
 「大腸菌とそれに感染するウィルス(ファージ)がなかったとしたら、現代の遺伝学の輝かしい発展は見られなかったであろうといっても、決して過言ではない。遺伝のもとになる遺伝子の本体がDNAと呼ばれる物質であること、そのDNAの分子構造がもとになって特定のたんぱく質が合成されること、DNAの分子構造に含まれている遺伝情報の解読など、遺伝現象を分子のレベルで説明する分子生物学の骨組となる重要な事実の大部分は、大腸菌を材料に使った実験から明らかになっている。」すなわち、「何の役にも立たない」と私が思っていたのは、とんでもない間違いだったと、再度しつこく言わせていただきます。それどころか、現代の遺伝学や遺伝子工学にとって欠くべからざる重要な基礎知識になっていたのです。
 最初に紹介しました『基礎分子生物学』のテキストには、DNAウィルス増殖のイラスト図の前後に、次のような文章が記述されていました。
 「インフルエンザやはしかはウィルス(virus)によって起こる。細菌をも通さない細かなふるいを素通りするくらい小さく、1mmの1万分の1からその数十分の一程度の粒子で、電子顕微鏡でしか見ることができない。ウィルスが細胞に入ると、ウィルスの遺伝子は細胞がもつ酵素リボソームのような細胞内の装置を用いて自分の遺伝子やタンパク質をつくる。細胞の中に遺伝子とタンパク質からなるウィルス粒子が多数形成され、やがて細胞を殺して外に出てくる。」同じように、私が先日買った高校生物の参考書にも「細菌に感染し、その細菌を破壊して増殖するウィルスを特に『バクテリオファージ』(あるいは単に『ファージ』)と言います。」と書いてあります。
 「大量のウィルス粒子も、瓶(びん)の中にあるときはただの白い粉末であり、(休眠していた種が生育に必要な環境が整ったので自己増殖した)古代のハスの種と比べてみるとおもしろい。ウィルス粒子の場合、栄養を与えるだけでは増えない。増えるためには生きている細胞のもついろいろな道具が必要である。つまり、自己増殖能がなく、一般にはこれを生物の一つとはみなさない。しかし、遺伝子をもち、その情報に従って分身がつくられる点に関しては生物の定義の一部を満たしている。(したがって)ウィルスは不完全な生命体とみなすこともできよう(注:現在では、酵素を用いて遺伝子を試験管内で増やすことができる)。」
 この文章の最後の注釈文について、補足を加えておきます。この注釈文中の『酵素』とは、DNAポリメラーゼとかRNAポリメラーゼのことです。特に、RNAポリメラーゼIについては、実際に、農薬の成分として核酸合成に使われていることを私は知っています。こうした酵素によって遺伝子の特定の塩基配列を増やす技術が、皆様ご存知の『PCR検査』で有名になったPCR法(ポリメラーゼ・チェイン・リアクションすなわちポリメラーゼ連鎖反応法)です。よって、ウィルスと遺伝子(DNAやRNA)とPCR法の切っても切れない関係があることを、私は知ってしまいました。
 このように見ていくと、アイツ(すなわち大腸菌)とアイツ(すなわちファージ)との自然のメカニズムは、その周辺の科学的知識が増えて、私としては、予想外の成果となりました。これは、事実ではありますが、これで終わりではありません。例えば、毎日の新規感染者数の根拠となっているPCR検査についても、私なりに考えてみてまだまだわからないことが沢山あります。どうやったら陰性証明を獲得できるか等の悪知恵を働かそうとは思いませんが、メカニズム的な面は解明したいものです。私は、まだまだ勉強が足りないな、と思う今日この頃です。