ニューノーマルなメッセージを思いつく

 またまた後出しジャンケンみたいで申しわけないのですが、人々に行動変容を促すような、強いメッセージを考えたので発表したいと思います。冗談だと思ってもかまわないのですが、このメッセージは、法的などんな罰則規定よりも強力で効果的です。ヒューマニズムに反する、と欧米から批難されるかもしれませんが、実は、特定の人間蔑視(ヒューマン・ヘイト)や差別などではなくて、老若男女すべての人間に平等だと、私は豪語したいと思います。
 「人を見たら泥棒と思え。」という言葉があります。「他人を簡単に信用するな。その言動を軽々しく信用せずに、泥棒として疑え。」というような意味の言葉です。それをもじって私は「人を見たらウィルスと思え。」という言葉を思いつきました。その表面的な意味は、「人と接触することは、ウィルスと接触することだ。」ということです。つまり、これは、「人との接触を断つ。」という言葉と同じ意味です。ただし、それとは大きな違いがあります。「人との接触を断つ。」という言葉は、感情が伴わない言葉です。一見冷静で、公平な言葉のようです。けれども、世間の意識からすれば軽視され、内面に浸透しないで無視されてしまうメッセージです。表面的にそれに従っているふりをされてしまう弱いメッセージです。
 それに反して、「人を見たらウィルスと思え。」などと言ったならば「何てことを言うんだ。そうかもしれないけど、あんまりだ。」ということになると思います。全世界から猛烈な反発があるかもしれません。私が何かの要職に就いていたならば、国内外から批判されて、即刻辞任しろと言われるかもしれません。このひと言によって、大衆の心底にある意識を射抜いてしまい、一人一人の恐怖心をほじくり返してしまうことでしょう。そのような後ろ向きなメッセージではありますが、「感染症予防のためには、人と人との接触をなるべく控えたほうがよい、との専門家の指摘がありました。どうしたらいいのか迷っている人は、人を見たらウィルスと思いなさい。」という強いメッセージを、首都圏の知事さんには本当は出してほしかったと思います。
 このようなメッセージは、あながち非科学的でもなさそうです。「ヒトのゲノムの4割は、ウィルスのゲノムと同じ。」というのは、以前私のブログ記事で記述した情報です。現代のゲノム研究はかなり進んでいて、最近世間を騒がせている変異種の存在がわかったのも、イギリスのゲノム研究の功績と言えます。合成されるたんぱく質酵素などの設計図(ゲノム)に共通部分があるということは、生命体としての共通部分がどこかしらにあるわけです。少なくとも、全く別のものではない、と言えます。ウィルスと人とは、その生成および成長にかかる時間や、それによって出来上がる組織の複雑さに違いがあるのは明らかです。だとしても、タンパク質や核酸をおおもとの材料としていることは確かですし、その生成・成長以前の基本部分に(ゲノム以外にまだわからない部分が多いのも事実ですが)決定的な違いはなさそうなことは確かなようです。
 私自身に神経質な面があるのかもしれませんが、人間を含む生物や生命全体に多少の『気持ち悪さ』とか『グロテスクさ』をずっと感じてきました。見た目とか匂いとか、例えばそれを模写した無生物の芸術作品とかにはないものを漠然と感じてきました。(あくまでも見た目だけですが)最近は、人の首から上が、コロナウィルスのスパイクに見えてくることがあります。だから、「人を見たらウィルスと思え。」というメッセージを受けとっても、私は正直違和感がありません。「人と対面したら社会的距離(ソーシャル・ディスタンス)をとるのが原則だ。(原則だから例外もあり。)」と普通に思うことに、不自然さはないと思うのです。
 つまるところ、私が思いついたこのメッセージには、裏の意味があります。「他人をウィルス扱いする」というネガティブな印象とは裏腹に、その言葉の真意として「まずウィルスと仲良くできなければ、人とは仲良くできない。」という深い意味があるのです。ウィルスと敵対して体調を悪くばかりしている(つまり、ウィルスと共生できていない)状態だと、いつまでたっても問題は収束しません(つまり、他人とも共生できません)。個々がウィルスとの困難に打ち克つということは、ウィルスを消滅させることはできないとしても、人とウィルスの双方が生き残ることであり、それが『共生』という意味なのです。思い返してみれば、私たち人類を含む真核生物の歴史は、ミトコンドリア葉緑素の例もあるように、バクテリアやウィルスなどとの共生の歴史でもあったと言えます。今の私たちに必要なのは、そのような発想や意識を転換するタイミングをいつ、どのようにしてつかむのか、ということにありそうです。