3密を検証する その1

 毎日テレビを観ていると、数字やグラフ図ばかりが目に入ります。よっぽど私たちは数字や数値計算やグラフ図が好きな人が多いみたいなので、H大学の文学部を卒業した(つまり、文学士の称号を持つ)私も、そのトレンドに従ってみました。
 生きている複数の人間がいる空間を仮に考えてみます。生きている人間の体は、呼吸によってウィルスなどを出し入れしていると仮定します。各人の吐き出す息に含まれるウィルス量それぞれをXとし、その中の一人の人間が吸い込むウィルス量をYとします。すると、

 Y < Σ Xi (ただし、X > 0)という関係が成り立ちます。

 この関係を日本語で表すと、「一人の人間が吸い込むウィルス量の最大は、同じ空間の中にいる複数の人間が吐き出すウィルス量の総和になる。」というふうになります。
 その空間に、生きて呼吸をしている人間が何人いたら、息を吸い込む人間が危険になるのかどうかは、この計算式からはわかりません。けれども、その人数が増えて多くなればなるほど、彼らから吐き出されるウィルス量の総和が大きくなるのは、この計算式から誰でも理解できると思います。(もちろん、その空間の中に新型コロナウィルスが存在するのかどうかはわからないという前提で話を進めています。)
 密集・密接・密閉という『3密』のうち、人間が密集すればするほど、その中で一人一人が吸い込む(つまり、さらされる)ウィルス量が増えることは、上の式から明らかだと思います。さらに、密接な会合や空間の密閉は、上の式の左辺と右辺の値を限りなく近づけます。つまり、「Y=ΣXi」の関数の示す状態に限りなく近づきます。その状態を、平たく日本語で言えば「人から人へ伝わりやすくなる。」ということになります。
 また、この『ウィルス量の総和』という考え方は、かなり融通が利きます。例えば、通気のない(あるいは、通気の悪い)密閉空間内で、人間の吐き出したウィルスが消滅しないで残る(つまり、ウィルス量が減らない)ものとすると、次のように考えてみることができます。その空間にたまるウィルス量は、複数の人間が一定のH時間同時にいた場合((Σ Xi) x H)と、彼らそれぞれが順番に一定のH時間ずついた場合(Σ XiHi)とでは、ほぼ同じと考えてよいと思います。ちなみに、上の関係を計算式でおしゃれに示すならば、

 (Σ Xi) x H = Σ XiHi (ただし、H = Hi)といったところでしょう。

 人がさらされるウィルス量の面から見れば、その場にいる人数が少なく見えても、その時間が長くなれば長くなるほど、それよりも多くの人数が一定時間内にいるのと同じになります。いずれにしても、目に見えないほど微小で軽微なウィルスのようなものは、屋内の風通しを良くしたり、定期的な窓開けなどの通気によって、屋外へ押し流してしまうことが、一番良い対処方法だということになります。

 「だから、なんだ。」と言われるかもしれません。「人間は、呼吸も飲食もしてはいけないというのか。それでは、生きていけないではないか。」とか「それじゃあ、感染防止対策なんて、いくら徹底したところで、人と人との接触があるかぎりムダではないのか。」とか「こんな理屈は意味がない。なぜならば、誰でも、わかりきっている当たり前のことだ。」とか「どうしたらいいかの答えになっていないし、何の対策にも解決策にもなっていない。」とか「他人の意識を変えることへの何の役にも立っていない。机上の空論だ。」などということになります。それらの意見を、すべて私は否定しません。まさに、その通りなのです。むしろ、こんなことで、いちいち危機感を持っていただいては逆に困ります。あえて私がそんな理屈を持ち出したのは、少し視点を変えて、これまでとは次元の違う考え方があるということを知っていただくためなのです。
  私たちのほとんどは、これまで、新型コロナウィルスのような感染症を経験していなかったために、このような理屈や計算を日常生活の中でしたことがありませんでした。会合を開く時に人数制限が必要だと、感染症の専門家さんに指摘されて、その指示に素直に従いました。その場所(空間)の広さからソーシャルディスタンス(あるいはフィジカルディスタンス)を互いに守れる人数を決めたり、あるいは、各人のマスク着用を義務付けたりという感染防止対策を決めたりしました。しかし、そもそもどうして、そうするとよいのか、なぜそうなのかということを一歩踏み込んで考える人は少なかったと思います。それは、密集・密接・密閉という『3密』を回避するためだと、誰もが答えます。それでは、その『3密』って、一体どういうことなのでしょうか。「『3密』は『3密』だ。国や専門家さんが、『3密』に当てはまる場所は、感染リスクが高いと言っているから、それに従わないといけないのだ。」という意見が多数を占めることになります。その結果私たちの多くは、「人が多くて密集している場所が『密』で危険だ。」と、いとも簡単に答えを出してしまうわけです。
 「いつでも、答え一発。結果オーライだから、それでいいじゃないか。」と誰もが言うかもしれません。しかし、少なくとも私は、結果オーライを求めてはいません。私たちは、何かで成功したと思うと、その成功感が忘れられなくて、批判や検証をなおざりにしがちです。そんな面倒なことをしているヒマは無いと、誰もが先を急ぎます。失敗に対する批判や検証は十分すぎるくせに、こと結果オーライの案件については、「成功した過去の『立派な』経験を疑うのは失礼だ。そこには、弱点や盲点は絶対に無い。」とタカをくくって、それを完璧だったとみなしたがります。最近の例で言えば「新型コロナウィルスを封じ込めた。」などというメッセージを伴う処々の案件なんかは、すべてそうです。
 したがって、それは、間違った経験則を生みやすいと思います。私が求めているのは、自然のメカニズム(つまり、自然則)を知ることです。仮にそれが、人間の力ではどうすることもできず、人間の側が失敗ばかりだったとしても、それを知ることには価値があります。私たち人間が、それを完璧に回避できず、それに対して徹底的な対策がとれないとしても、その何らかのメカニズムがあることを知るだけでもいいのです。そして、それを解釈あるいは理解することによって、私たちの多くはその法則性に納得すると思います。人間社会的な解決策としてではなくて、自然と向き合う心構えや心の準備として『3密の回避』というものを理解し直してほしいと思います。それとは逆に「何なのか、よく見えないし、確認できない。」とか「何だかよくわからない。」あるいは「突きつめて考えてみると、結局どういうことだか、どうしていいのか、わからない。」といったことが、現状と向き合えない本当の理由であり、一番の不安であり恐怖なのです。