私のプロフィール 成人映画の話

 最近、成人の日の話題がテレビ等で取り上げられています。二十歳(はたち)の私が東京都足立区主催の『成人のつどい』に出席してから思ったことは、『成人の日』の前後では個人的に余り変化が無いなと思ったことです。酒を飲みたいとか、煙草を吸いたいと思ったこともなく、まだ、大学三年生の勉学中で親のスネかじりだった私は、成人になるというメリットを感じていませんでした。そんな時、私の家で定期購読していたスポーツ新聞の、芸能欄の端っこの記事に目が行きました。
 そこでは、日活ロマンポルノという当時『三本立て』と呼ばれた、三本の成人映画の上映広告が、いつもの小さな枠で載せられていました。一日に三本続けて上映される成人映画のうちの一本を代表作にして、その主演女優で誰々が出演します、と小さな顔写真が印刷されていました。そして、その映画の内容または女優の紹介が明るく楽しい短文で綴(つづ)られているのが、いつものパターンになっていました。
 例えば、『狂った果実』は、石原慎太郎さんの小説、および、それを原作とする日活青春映画と同じタイトル名の、当時の日活ロマンポルノ映画でしたが、「太陽族ならぬ、クリスタル族がメチャメチャにされます!」などと紙上の宣伝では書かれていました。ちょうどその頃は、田中康夫さんの『何となくクリスタル』という小説が巷(ちまた)で流行(はや)っていました。(また、最近再結成のニュースのあったアリスさんが、この映画のエンディング・テーマを担当して歌っていました。この映画を観ていた当時、私はそのことにびっくりした記憶があります。)
 時を遡(さかのぼ)ると、まず、そのような感じの記事を目にして、二十歳の学生の私は、上野の日活映画館へ三本立て成人映画を初めて見に行きました。その映画館を私が目にした時、最初に飛び込んできたものは、白い文金高島田を被った女性の、首から上をペンキで描いた大きな看板でした。『クライマックス 犯される花嫁』という、いかにも成人映画らしいセンセーショナルな(衝撃的な)タイトルの映画が、その日の三本立てのメインでした。実はこの映画で、私は原悦子さんという女優を初めて観て、同時に、それが彼女をスクリーンで最後に観ることとなりました。映画を観た当時の記憶としては、その原悦子さんの年齢不詳の演技に、私はびっくりしていました。
 それにしても、(今のシネマでは当たり前の広さと席数の少なさかもしれませんが)当時の映画館としては狭くて小さい、その暗い上映場所に入って、私はびっくりすることばかりでした。メインの映画の直前の作品、つまり、その日二番目に上映された映画を途中から観たのですが、スポーツ新聞の明るい調子の文面とは似ても似つかない、シリアスな状況がスクリーン上に展開されていました。刃物で刺されて倒れた、その身動きしなくなった一人の女性を見て、ヤクザっぽいワイルドな男が「何てこった。この女は、二度と微笑むことはできない。二度と幸せをつかむこともできないのだ。」と、吐き捨てるようにセリフを言いました。観客席は中年のオジサンばかりでしたが、皆じっとそれを静かに観て聴いているのです。まるでそれは、葬式の壇上でお坊さんが説教をしているのを聴いているかのようでした。
 さらに言えば、女性が例のごとく声をあげ続けるシーンに対しての彼らの態度は、お坊さんがお経をあげるのを静かに聴いているのと同じに見えました。観客の中年のオジサンたちが、それほどまでに真剣な面持ちで、こうした映画のスクリーンに見入っているなどということを、それまでの私は想像だにしていませんでした。まさに、これが私の見た『成人映画』の実態だったのです。
 しかも、その日のメインの映画を見終わって、私はウームと唸(うな)って考え込みました。この種の映画は、表現の手段として男女の肉体を剥(む)き出しに映像化しているが、本当に描きたいのは男女の心すなわち内面なのだ、ということに気づいたのです。私が途中から見た先の映画は、今にして思えば、日活ロマンポルノと言うよりも日活青春映画の影響を引きずったものだったかもしれません。その頃の若い私は、文学部英文学科で勉強していたので、そうした映画をただエッチなものとしてあらかじめ考えていた自らの、その先入観を深く反省させられました。確かに、その映画の映像や音響や言葉は、刺激的で未成年には良くないものだったかもしれません。しかし、成人した人間すなわち大人がそれを観る場合、人生のいろんな困難や悩みや問題がそこに描かれていることを見逃すことはできなかったと思います。
 『桃尻娘』シリーズの一つを見ていたら、例のごとくあれこれあった後で、主人公の三人娘の一人がこんなセリフをラストシーンで言っていました。「今度は絶対、恋愛と結婚とセックスを同時にできるたった一人の男性にめぐりあいたいなあ。」彼女のそんな願望は、もちろん無い物ねだりなのです。観客のオジサンたちは、そのスクリーン上の若い娘を観て、各人それぞれが「そんなの無理だよ。」とか「無理しなさんな。」と心の中でつぶやいたことでしょう。大人の世界の理想と現実が、そんなふうに観客に人間的な感情を呼び起こすように表現されていて、当時の若い私は、こうした映画こそ、その内容を文学的に深く考えてみるべきだと思いました。
 また、私がこの種の映画を見ていた時期に、『ピンクのカーテン』シリーズも二回くらい観たことがありました。その主演は、女優の美保純さんでしたが、私と同年代であったことを当時知っていました。しかし、それに対する嫌悪感とか不快感とかはありませんでした。ただ私は「(彼女は私と)同年代なのに、大人の世界で頑張って働いているなあ。偉いなあ。」という、そのことがちょっと誇らしいような、ちょっと彼女に敬意をはらいたいような気持ちであったと思います。