テレビドラマと漫画原作に思うこと

 私は、1986年リリースの渡辺美里さんの『My Revolution』が好きでした。ただし、その曲を単体で好きだったわけではなくて、当時オンエアされていたテレビドラマ『セーラー服通り』のオープニング主題歌として好きだったのです。シングルレコード盤も買いましたし、牛次郎さんの原作本も買いましたし、ドラマと同名のマンガ単行本も買いました。でも、ストーリーの原作本やマンガ単行本を買って読んだのは、テレビドラマでたびたび露呈されていた『柔らかいシーン』、すなわち、お色気の部分をそれらに期待していたわけではありません。このドラマのオープニング映像とその主題歌の組み合わせが、余りに見事だったために、それと似たような(ただし、必ずしも同一ではない)作品の雰囲気をもっと知りたいと思ったからです。
 つまり、その作品の雰囲気というものは、テレビドラマがその原作に忠実だから、視聴者から好かれるというものではないと思います。どんな作品でも、それを作る人が違えば、同じ内容を作っても微妙に違うものになります。また、一人の人間が作った作品と、複数の人間が協力して作った作品が違うこともよく起きることです。
 原作に忠実なテレビドラマを作るために、それでは、原作者が脚本家をやったらいいのかと言うと、そう簡単にはいかないと思います。プロの漫画家が、プロの脚本家と同じスキルがあるとは必ずしも言えないからです。漫画の原作者が、自身の思うようなテレビドラマに(監督し制作)することは、至難の業(わざ)であると言えます。その場合、漫画の原作者が、かわいそうに思えました。
 テレビドラマの一視聴者である私は、その原作が漫画であろうとなかろうと、あえてその原作は読まないことにしています。つまり、テレビドラマと漫画は、お互いパラレル・ワールドの中にあると考えています。それぞれが真実であり、それぞれの道のプロが作った世界観を、視聴者や読者が楽しめればいいのです。
 以前私が『ぼくは麻里の中』という深夜のテレビドラマを観て、しばらく後にその原作の漫画単行本を古本屋さんで見つけて買って読んだ、ということをこのブログで書きました。確かに、そのテレビドラマをよく観ていなかったので、全体のストーリーを知りたいとは思いました。でも、漫画単行本を読んでいる時は、その作者の押見修造さんがどんな絵の組み合わせで物語を作っているのかが重要で、テレビドラマのことはほとんど考えていませんでした。テレビドラマで池田エライザさんの演技がちょっと良かったとは思いましたが、原作漫画中の麻里さんが、池田エライザさんに同じか似ている必要は全くないわけです。また、別の例を申しますと、『北斗の拳』のアニメに関しては、原作漫画はよく読みましたが、アニメはほとんどテレビで観ていません。漫画は、原哲夫さんと武論尊さんの作品であり、私はそっちが好きでした。テレビアニメについては、原作漫画のストーリーや決め台詞を踏襲していることくらいしか、私は知りませんでした。
 あと、17年くらい前にTBSテレビの昼ドラでやっていた『砂時計』という作品は、今でもある意味で印象に残っています。男女の4人の主要人物を12人の俳優・子役さんを使って表現していました。つまり、4人の人物の、小学生時代・中高生時代・大人時代の3つの時間が同時に進行していくために、12人の役者さんが同時に必要となった、というわけです。私は、このようなのドラマのインパクトに引かれて、毎回そのテレビドラマを観ていました。そしてまた、そのドラマのオープニング映像もその主題歌も良かったと思います。
 ただし、その原作の漫画はいまだに読んでいません。後に映画化もされたそのテレビドラマに、漫画の原作があることは、以前から知っていました。けれども、どうしても原作を読みたいとは考えませんでした。私にとっては、子供期・思春期・成人期の4人の主要人物の関わる時間列が同時進行して、現在・過去・未来のシーンがたびたび入れ替わるという、このテレビドラマの大胆な仕掛けを12人もの役者さんが同時に演じているという、その事実があるだけで十分だったのです。
 そんな私にとっては、テレビドラマが原作に忠実かどうかなどということは、小さなことに思えました。視聴者や読者などの『受けとる側』が想像しなければならないことは、それを制作している側がどんな思いで作っているのかということです。良い作品を作れれば、作者は満足できるでしょうし、下手な作品を作ってしまったならば、作者には後悔が残ります。しかし、『受けとる側』は、そうした『作る側』の苦悩を知ってか知らずか、作品に対して批判的になりがちです。時に、それは非情でさえあります。つまり、そのことを強く自覚して反省をしていないことが多々あるのです。したがって、作品を『受けとる側』は、テレビドラマであろうと、原作漫画であろうと、それぞれを『作る側』にもっと好意を寄せて応援してあげないと、本当はいけないのかもしれません。