『気持ち悪さ』の正体

 わたしたち女は多くの魂をもっているのです。あなたたちは、たった一つの魂しかもっていません。それもわたしたちのよりはたくましく、しばしば残酷で、非道でさえあります。
     ― 『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン著、白井健三郎訳)より引用

 今回のテーマの副題は、『魂(あるいは自我)の変貌と成長』です。言葉は難しいのですが、内容は簡単です。誰もが、若い頃の反抗期として一時的にグレることを経験します。それまで素直な性格だった良い子が、いきなり不良になってひねくれた性格になってしまう。そういうことを経験してから、大人になった人も少なくないと思います。なぜ、そうなってしまうのか。今回私が書きたいのは、まさにそのことなのです。
 冒頭の引用は、男性の側に立つ主人公クリストフの問いに対する答えとして、女性の側に立つアルノ―婦人が言った言葉でした。私独自の解釈としては、つまるところ、彼の疑問は「女性はなぜ、男性の嫌がる行為をして、男性を困らせて怒らせるのか。」ということだったと思います。しかし、アルノ―婦人の立場からすると、男性に対して悪意があって女性がそうした言動に走ってしまうのではない、女性はむしろ男性の餌食になっている弱い存在である、という弁明になっています。そういった状況の中で生じた言葉が、冒頭の一節だったわけです。
 今回私が引用したその言葉を、そのままの意味としてだけ読者に受け取られるのは少し違うのかもしれません。それが、女性の世界から見える景色として表現されていることに注目して欲しいと思います。おおかた、女性がそのようなことを言うと、男性を責めたり非難しているように、男性の側は受け取ってしまいがちです。けれども、女性が男性に本当に望んでいることは、「こちらの立場に目を背けず、わかってほしい」ということです。つまり、これは、男女異性の世界の間には何らかの境界があることを示している、人間社会の一側面と観ることもできます。
 以前私は、夜中のテレビで『ぼくは麻里のなか』というドラマを観ていました。観ていたといっても、観たり観なかったりの飛び飛びだったので、ストーリーがまるでわかりませんでした。ただ、池田エライザさん演じる女子高生の麻里が、別の男性の心になってしまった、という不条理が、このドラマのテーマだとは理解していましたが…。 そう言えば、ネット上での、この実写ドラマの感想として、「気持ち悪い。」というのが少なくなかったようです。若い女子高生の身体に、別の男性の心が入っていることへの気持ち悪さとか、なぜそんなことが起きてしまったのかということへの視聴者の方々のモヤモヤがあったからだったと思います。
 そのテレビドラマの最終回が終わった直後に、メインキャストの挨拶がありました。このドラマを最後まで観てくれてありがとう、みたいな挨拶でしたが、それを観て私はちょっと気づいたことがありました。すなわち、麻里役の池田エライザさんの、異性を意識していない、あるいは、異性を感じさせない様子を見たような気がしました。それが、その時の池田エライザさんの素の姿なのかもしれない、と思いました。その一瞬の妄想が、私自身には妙に気持ちよく感じられたのです。
  私が、この漫画をテレビドラマで観た時は、日常的で自然な実写に見えました。多重人格や性同一性障害ということではなくて、「男の子みたいになりたくて男性っぽく振る舞おうとする女性って普通にいるよね。」と感じさせる、池田エライザさんの演技だったのです。夜中にやっていた番組だったにもかかわらず、気持ち悪さを感じませんでした。

 そんなことに影響されて、先日地元の古本屋さんでたまたま見つけた『ぼくは麻里のなか』のコミックス単行本1巻から8巻までを買って、4時間かけて通して読んでみました。最終巻の9巻は古本屋さんになぜかありませんでした。地元のレンタルビデオ&本屋さんでその第9巻を見つけたので、借りて読んでみましたが、よくわかりませんでした。けれども、ネットのウィキペディアを見て、おおまかな結末をつかみました。
 この漫画は、男女の心の入れ替わりの物語なのか、それとも、小森功(こもりいさお)という男性の憑依の物語なのか、それとも、麻里という若い女性の多重人格の物語なのか、といういくつかの思惑を読者に抱かせて、ぺ―ジが進んでゆきます。若い女子高生の麻里のなかにいる『ぼく』は、一体誰なのか、ということを探ってゆく物語になってゆきます。そして、『入れ替わり』でも『憑依』でもないのならば、『多重人格』ということになりますが、でも、それは柿口依(かきぐちより)というもう一人の主要人物の目線でした。
 私には、その目線を信じてこの漫画を『多重人格』の物語だったと、簡単に受け入れることができませんでした。たとえ、その麻里のなかの『ぼく』が、小森功という男性から得た情報をもとにして麻里自身が作り上げた別人格だったのだと臨床心理学的に第9巻に書かれていたとしても、それだけではないような気がしたのです。だいいち、それは麻里自身が無意識のうちに生み出したのか、それとも意識的に作り出したのかというと、はっきりしません。第9巻を読んだかぎりでは、麻里自身の意識(すなわち自我)が、『ぼく』に変貌していたことに気がついて、彼女自身の意識(自我)を取り戻した、という感じでした。

 ところで、この漫画の著者の押見修造さんは、コミックス単行本第1巻のあとがきで次のようなことを述べていらっしゃいます。著者は、「男性読者の皆さんは女の子になりたいと思ったことはありますか」という問いから始めます。「僕はあります」とした上で、それは『男の性欲の目線』からではなくて、『心の中から全て女の子な存在』つまり『本物の女の子』になりたい。なぜならば、この著者にとっての女性は『世界の半分』であり、「男としての僕は男としてしか世界を見られないし 女として世界を見ることは絶対にできない」、つまり、「その届かない世界の半分に踏み込みたいという願望なのです」と述べられています。ここで、夜道を振り返る麻里の姿の絵が描かれて、「でも、それは決して達せない不可能なこと」なのだけれど、それでもと、著者はそのような願望の切実さを読者に訴えます。そして、この『ぼくは麻里のなか』という漫画はそのようことを考えながら描いたと、述べていらっしゃいます。
 この夜道で振り返る女子高生の麻里の姿には、重要な意味があると思います。なぜならば、その次のコマ割りのシーンが、麻里の中にいる『ぼく』が、その直後どうなったのかを思い出せないというシーンになっているからです。そしてまた、『ぼく』自身が麻里の体の中にいることが、夢ではなくて現実だということを知るシーンになっているからです。いわゆる夢と現実との分断が、そこにはあると読者に感じさせます。
 ということは、ここで、読者の側が、それまでの読み方、見方や考え方を反転させてみると、話しが一変します。不条理も、モヤモヤも、気持ち悪さもありません。すなわち、小森功があとをつけてきた夜道を麻里が振り返るまでが、実は、麻里自身の夢の中の出来事であり、妄想だった、と考えます。小森功が麻里のことを『コンビニの天使』と名づけたのも同様です。それらは、麻里自身の夢の中、すなわち、麻里の心の中にいる『ぼく』が考えたことにすぎないと、そう考えても、話しのつじつまは十分に合います。
 そのような答えあわせを、第9巻までを読み進めた読者には是非ともやってもらいたいと思いました。この漫画の著者は、第9巻のあとがきで「1巻のあとがきで、僕は『女になりたい』と書きました。でも、もう女になりたくはありません。」と述べていらっしゃいます。そして、いわゆるビヨンド・ジェンダー(beyond gender)みたいなことも述べられています。
 確かにそれはそうですが、「それでも、異性の世界を知りたいという願望だけは捨てないほうがいい。」と、私は思いました。なぜならば、その願望は、人間として生まれてきた誰にとっても切実なものであるはずだからです。女性は「男性はいいなあ、得だなあ。」と思い、男性は「女性はいいなあ、得だなあ。」と思います。それは、いずれも普通のことであり、自然なことです。そのような願望に、道徳的な罪などはありません。たとえ、それが幻想であったとしても、です。幻想であるならば、幻想としてしっかり記憶しておくことが、明日を生きる活力につながります。
 それと酷似していることが、この文章の冒頭近くにちょろっと書いた『反抗期の記憶』です。子供から大人に成長する過程で、誰もが経験するアレです。それを思い出すたびに、「あの時は恥ずかしいことをしたなあ。」とか「自分自身の黒歴史だ。」などと思って、「だから、思い出したくない。」とか「あの頃の自分は無かったことにしたい。」などと、思います。しいては、「できれば、人生をやり直したい。」とか「これまでの自分をリセットして、生まれ変わりたい。」などと、誰もが考えがちです。
 しかし、周りの大人たちから子ども扱いされていたご自身が、「大人扱いされたい。」という切実な願望を抱いていたことは、多くの場合忘れ去られてしまっています。そのような自我の願望があったからこそ、子供から大人に成長して行けたということを、すっかり忘れていらっしゃる。あの頃のつらい思い出に背を向けて、そのような願望の切実さも忘れて、大人になってしまうことに、一体どれだけの人間としての価値があるのか、ということです。そのような誰もが陥りがちな拒絶反応に対しては、その真意を測(はか)りかねます。
 すなわち、それが、今になって考えると『恥ずかしいこと』だったとしても、たとえ、ご自身の『黒歴史』であったとしても、あるいは、はたからみて『気持ち悪いこと』だったとしても、自我の切実な願望だったことには変わりありません。それを「恥ずかしい」「黒歴史だ」「気持ち悪い」と自らが拒絶したとしても、本質的には何も変わりはしません。だから、そんな時には、自己承認や自己肯定が必要なのです。少なくとも「ひどいことを経験したから、生まれ変わって、その失敗経験を無かったことにして、人生を一からやり直したい。」、つまり、「死にたい。」などと思うのは、人間として間違っていると考えるべきです。