バラホテルをめぐって

 わたせせいぞうさんの作品『ハートカクテル』の中に『バラホテル』という話があります。1983年(昭和58年)に、モーニングに連載された第一話です。JTの提供でテレビアニメにもなり、ビデオ化もされた『ハートカクテル』の第一話でもあったので、知っている人も少なくないと思います。男女の恋愛をテーマとしたその作品の中で、「とても切ないお話」として知られています。
 15年ぶりに戻ってきた主人公の男性は、そこで、かつてのガールフレンドのことをいろいろと知るのですが、彼女に会わずに去っていくというストーリーでした。
 20代、30代、40代の若い私は、この『ハートカクテルvol.1 バラホテル』をコミックスやビデオで鑑賞するたびに、身につまされる思いをしていました。彼と彼の家族を不幸に陥れたのが、彼女の父親であったことへの怒りと憎しみが、15年と2ヵ月経ってもまだ癒(い)えていないという、主人公の男性の悲しみがひしひしと伝わってきます。彼女のお見合いの話がまとまったと聞いたことを機に、せめてもの大人の優しさで、誰にも知られることなくその地を去る主人公の男性の切ない姿が、悲しくも私の胸を打つという感じでした。
 彼は、かつてはバラ園に包まれたホテルだったそのお店で、従業員のお姉さんから、ここの『おじょうさま』すなわち、かつて彼のガールフレンドだった女性についての話を一通り聞かされた後、このように尋(たず)ねられます。「お客さん。お知り合いの方ですか?」それに対して、主人公の男性は「いや。」と、あっさりと答えます。
 現在の私は、このシーンで重大なことを発見してしまいました。そう。その主人公の男性が、人生最大のチャンスを見逃してしまったことを、現在55歳の私は発見してしまったのです。この男性のように、相手の女性を直接、自身の力で幸せにできずに、結局お人よしで終わってしまうということは、今日まで生きてきた大人の私にも、身に覚えがあり、十分理解できることでした。「恋は盲目」と申しますけれど、相手の女性に一方的な恋心(こいごころ)を持っている限り、男性にできることはそこまでで、精一杯なのです。そういった男性は誰しも、それ以上のことはできないのです。そして、その後悔と悲しみを、彼は一生、引きずっていくわけです。
 しかるに、現在の私は、そんな恋心は捨ててしまおうと考えたわけです。人生の終わりが見え始めてきたので、そうした切ない気持ちに引きずられることが、もったいなくて仕方がないのです。あの主人公の男性だって、いよいよ死に際になって、あの時ああしておければ良かったなあと、おそらくそのことに気がつくに違いありません。
 私は、もう少し冷静になって考えることにしました。もしも、私が、この話の主人公の男性の立場になっていたならば、と妄想しました。そして、一つのことを思いついたのです。小さなことかもしれませんが、私は、何とかして、かつてのバラホテルのバラを育ててくれた『おじょうさま』に、感謝の気持ちを伝えたいと思いました。
 さて、そこで、このブログ記事を読んで下さっている皆様に、私の考えた『人生の悪知恵』をひそかに教えてあげましょう。まず、従業員のお姉さんに「お客さん。お知り合いの方ですか?」と尋ねられたら、こう答えます。「ここは、もともと僕の家でした。僕の生まれ育った場所なのです。その『ホテルの息子さん』というのは、僕のことです。だから、その『おじょうさま』に会わせてくれませんか。」
 そして、私は彼女に会って、このように直談判(じかだんぱん)するのです。「かつてはバラホテルだった、このお店は、僕の家だったじゃないか。それを他人の手に渡そうとするなんて何事(なにごと)だ。あれからもう15年と2ヵ月も経って時効だから、(ホテルを乗っ取った)君のお父さんの悪事は許してあげよう。けれども、君のお見合いの話がまとまったのは、許せない。ここは、今でも僕の生まれ育った場所に変わりないんだから、見も知らぬ人手になんか渡って欲しくないんだ。だから、君が他の男と婚約・結婚する話は容認できないから、それを破棄してくれないか。」
 たとえ、その直談判が彼女に受け入れられようと、それとも、受け入れられなくても、その結果がどちらへ転ぼうと、かまいません。そうやって自分自身の思いを相手にちゃんと伝えることが、人生にとって一番大切なことだと、現在55歳の私は思うのです。そうすれば、少なくとも、お互いの気持ちを通い合わせることができるかもしれません。
 しかしながら、人は誰でも、そのような人生最大のチャンスを見逃してしまうことのほうが多いものです。大人の世界は、生きていくために必要な『しきたり』や『しがらみ』に満ちています。そのため、誰しも、思い通りになれず、自由になることもできません。それで、その悲しみや後悔や切ない気持ちを胸に抱いたまま、その人の一生が終わってしまうことも多いのです。それを痛感しつつも、だからこそ、そのような現状に対して人間の一人として抵抗したいと、現在の私は思うのかもしれません。