異国の唄 YaYaYa (前回の続き)

 まず、日本語カバー曲のタイトルですが、例えば『やーやーやー』と原題をひらがなで表記するにとどめても良かったと思いました。でも、歌詞全体の意味を考えた場合、もうちょっと唄の方向性をはっきりさせたほうが良いと思い、こんなふうに考えてみました。この唄の主人公は若い女性です。相手の男性に優しくされたいと願いつつも、どうしても素直になれなくてそれとは正反対の態度をとってしまいます。でも本当は、この曲の歌詞に示されているように、「相手にこんなふうにして欲しい。」という願望をひそかに持ち続けているのでした。そこで、『ひそかな願望』というタイトルにしてみました。相手の男性が彼女のその願望に気づいて、それをかなえてあげたら、本当に「すべてが変わって」しまうのかもしれません。(ただし、相手の男性によっては、それは困難なことで、無理なことなのかもしれませんけど…。)
 次に、主旋律(主なメロディー)の最初のパートの英文”If you wanna be my love (I wanna be your star)”もしくは”If you wanna be my love, I wanna be your star.”を日本語に替えたわけを説明します。特に韓国の人にわかって欲しいのですが、私は国粋主義者ではありません。この唄のパートに限らず、英文でもハングルでも、外国語を必ず日本語に替えないと気が済まない、というわけではないのです。原曲の言葉のイメージを大事にして生かして、英語の歌詞を変えないのも一つの方法だとは思います。そこをあえて替えたわけは、日本人には日本語のほうが言いたいことが即座に、つまり、ストレートに伝わると思ったからです。
 「私を好きなら、こうして欲しいんだけれども…。」と相手よりも優位な立場で思うのが、この英文の内容だと思います。しかし、ほとんどの日本人(私もその一人でした。)はどうしても「あなたが私の恋人になりたいならば(私はあなたのスターになりたいけど)」もしくは「あなたが私の恋人になりたいのならば、(それじゃあ)私はあなたにとってのスターになりたい。」と簡単な英文をわざわざ直訳してから、どういう意味かと考えて答えにたどり着きます。歌詞の理解に時間がかかるのです。そんなふうに、せっかくのステキでシャレた英文のその意味が簡潔かつストレートに伝わらないと、後に続く歌詞の内容の理解に悪影響が出ると考えられました。
 ちなみに、このパートの唄い方は、原曲と同じで、「好きでいたいーとー」というコーラスを別のコーラスが追いかけて「思うなーらーばー」となります。もしくは、「私を好きーにー」というコーラスを別のコーラスが追いかけて「思うなーらーばー」となります。この唄全体を支配する重要なパートです。原曲の英文と同様に、ていねいに唄いたいものです。この唄全体のイメージや意味内容がここで左右されますので、しっかりと聴き手に理解されなければいけません。
 何度でも言いますが、私は国粋主義者ではありません。日本国に対する忠誠心や愛国心があるために、無理をして日本語ばかりを使って歌詞や文章を書いているのではないのです。自国語のよくわからない日本人もよく居ますけど(帰国子女ではない、私もそんな日本人の一人です。要するに、自国語がヘタだったということです。)、だからこそ、日本語でもって(バラバラな考えを持つ日本人同士がお互いの考えを)伝え合うのは(当たり前であっても)大切なことだし、かつまた、それはそれで楽しいことだと思うのです。
 この見方で日本の演歌を見直すと、その歌詞でカタカナ言葉や外国語の横文字(アルファベット)を使わない理由がそれなりに見えてきます。単にそれが、演歌という唄のイメージを守りたいわけだけではないことに気づくと思います。それを聴いてくれる日本人大衆のハートに向かってストレートに言葉で意味を伝えたいからでもあったのです。だからこそ、誰もがわかる普通の日本語を中心に歌詞が書かれて唄われているのです。
 原曲の英文を日本語に直した言い訳は以上のとおりです。でも、私は原曲の作者キム・ヒョンソクさんにケチをつけるつもりはまったくありません。それどころか、リスペクトさせていただきたいくらいです。それはなぜかといいますと、この曲の構成にあります。難しい話になるといけないので、曲の明るい暗い感じをお天気に例えて表現してみましょう。一見して、曲全体が晴れ模様のようです。が、よく目を凝らして短いパート毎に見ていくと、そうではないことに気がつきます。時々太陽を厚い雲がさえぎって、あたりが暗くなるイメージです。雨になるかと思った矢先に、厚い雲の切れ間から、太陽の光が射して、あたりが明るくなります。それを曲全体で何度か繰り返しています。つまり、お天気で言えば「晴れ時々曇り」の感じです。
 それでも、曲全体が晴れ模様のように感じられるのは、この曲の乗りの良さにあると思います。この唄で見逃してならない大事なこととは、実はこの点にあります。「何だ。そんなことか。」と思う人が多いことでしょう。けれども、そこがなかなか容易ではない。試しに、この曲を聴く前に、韓国の大衆歌謡のポンチャックを聴いてみるとわかります。例えば、この曲の動画を視聴する前に、『ポンチャック』で検索される動画をどれでもいいから視聴しておくのです。すると、この2つの音楽の共通点と相違点に同時に気がつきます。
 まず、似ている点は、いずれも曲の乗りが良いことです。つまり、この”YaYaYa”というK−POPの曲は、伴奏のピアノ(または、キーボード)にポンチャックのリズムが入っているように私には感じられました。つまり、韓国の若い人たちが好むK−POPであると同時に、韓国の一般大衆にも違和感なく受け入れられる部分を持っているということです。
 でも、違っている点は、その音楽の品と質にあります。ポンチャックは、韓国の大衆に受ける幅を持つがために、音楽の品位や質感をかなり落としてしまいました。現代風に言うならば、オヤジくさくて、オバサンくさいのです。もちろん、それでも悪くはないのですが、芸術に美しさを求める場合にはちょっと物足りなさが残ります。第一、若者に嫌われて、継承されなくなります。
 私がリスペクトしたい点は、この唄の作者であるキム・ヒョンソクさんが、韓国人好みの乗りの良さを上手く取り入れつつも、若い人たちにも好かれるようなキレイな音楽で表現していることにあります。ポンチャックを取り入れたリズム全体を単調なままで終わらせずに、欧米のダンス・ミュージックのリズムも取り入れて上手くまとめています。
 ポンチャックの曲に感じられることのある人間のドロドロした部分が、この曲のどこを探しても無いのです。この曲の構成も内容も、若い女性の、さっぱりした、けれど切ない気持ちを表現することを狙いとしています。そのことが、四十五十前後のオバサンにではなく、十代くらいのお嬢ちゃんたちにこの曲が受け入れられた音楽的な理由になったと思います。
 私もそのことを念頭に置いて、日本語カバーをする際の参考にしました。例えば、以下に表現されるパートを見てみましょう。主人公の娘さんの心に秘められた切ない思いが何となく伝わるような日本語に表現したつもりです。ちょっと日本の演歌にありそうな言い回しですが、日本語の聴き手にその唄心(うたごころ)が伝わればそれでいいのです。日本の演歌をパクって、お金を儲けようなどという意図はまったくありません。


   [ハングルの発音のアルファベット表記]
   Isesang hanapunin nomanur sarangharke isesang kuthnakaji
   [上のパートの日本語訳]
   この世界で一人だけのあなたを愛するわ この世界が終わるまで
   [私の作った日本語による意訳]
   あなた一人に心捧げて 時の果てまで


 ちなみに、ちょっと言葉遊び的に、”sarangharke”(愛するわ)を「(心を)捧げて」に対応させてみました。似て非なるものかもしれませんが、意味は近くしてありますから「同義同音に限りなく近くて、同じではない」と正確には言うべきところです。無謀な挑戦だったかもしれませんが、決して遊び半分のつもりはなく、私にとっては真剣な取り組みの一つであったことを伝えたいと思います。というのは、外国語の原曲と日本語カバー曲の二つの歌詞を覚えたり比べたりする場合に、両者の言葉の発音が余りにかけ離れていると、それぞれの歌詞を覚えにくし、それぞれの曲の感じもバラバラになってつかみにくいからです。
 なお、ひとこと付け加えておきますが、今回私が初めて挑戦したことがありました。私は、あまりその前例を聞いたことがありません。今回の日本語カバーで、ハングルのラップを日本語のラップに変えることになりました。私はプロのミュージシャンでもラッパーでもありません。なので、いいかげんなところがあるかもしれませんが、お許しください。私としては、なるだけラップらしくなるように表現したつもりです。