映画『さびしんぼう』を再考する

 ずいぶん前になりますが、私は、映画『さびしんぼう』のレンタルDVDを、レンタルビデオショップで借りました。そのDVDでは、エンディング・タイトルが2種類ついていました。通常モードでは、大林宣彦監督の意向が反映されたもので、劇場版公開時のものとは違う、音楽と映像によるものになっていました。この映画の最初に、ショパンの別れの曲とは別に流れていたBGMで、物悲しい調べの曲でした。まるで、青春のほろ苦さを感じさせるような、寂しさを感じさせる音楽でした。それとは別に、劇場版公開時のエンディングテーマも選択できるようになっていました。それを選択すると、顔の白塗りを落とした『さびしんぼう』の衣装の富田靖子さんが『さびしんぼうの歌』を歌う映像と音楽を観ることができました。
 私は、この映画を実際に映画館へ観に行ったことがあります。その富田靖子さんのエンディングが映っていた銀幕が上がっていき、回りの人たちのほとんどが席から立ちあがっていっても、私はただ一人、その銀幕の上がった舞台の方を見つめていました。きっと、私の心の中に、この映画のラストシーンに対する疑問があったからだと思います。主人公の青年は、「なぜだか百合子さんにそっくりの一人の女性」と結婚して、本当に幸せになれたのだろうか。その女性が「もう一つの横顔を見せて座っている」そのかたわらで、彼は本当に幸せになれたのだろうか。そんな疑問を抱えつつ、こうしたハッピーエンド(?)のシーンの次に現れたエンディング(すなわち、『さびしんぼう』の白塗りを落とした富田靖子さんの歌う映像)を、私は席も立たずに観ていたのでした。
 「あなたに好きになって頂いたのは、こっち側の顔でしょ。どうか、こっちの顔だけ見ていて。反対側の顔は見ないでください。」という劇中の、百合子さんのセリフがあります。最近までの私は、主人公の青年の側に立っていて、もしも、恋をした相手にそんなことを言われたら嫌(いや)だなあ、とビクビクしていました。ところが、つい最近になって、その意識が変わりました。どういう心境の変化からかわかりませんが、相手からそんなことを言われるよりも、それはこっちのセリフだと思うようになったのです。私自身が誰かにそういうふうに言ってみたい、と思うようになりました。
 なぜ私の意識が変わったのか、その理由ははっきりとはわかりません。けれども、おそらく年を取って(つまり、老いて)、主人公の青年の切なく悲しい気持ちだけでなく、相手の女性(百合子さん)の隠された気持ちまで見通せるようになったようなのです。
 劇中で、白塗りの顔の『さびしんぼう』が、主人公の青年の苦しみに気づいて、「これ(百合子さん)が、あんたの本物の『さびしんぼう』なのか。」と言う場面があります。今までは、これは、単に『さびしんぼう』が主人公の青年のことに首を突っ込んでそう言ったにすぎないと、私は思っていたのです。『さびしんぼう』は、主人公の青年の気持ちを考えずに余計なことを言ったにすぎない。これまでの私は、そのように理解していました。しかし、『さびしんぼう』のその言葉には、もっと深い意味があったと今の私は考えているのです。
 これまでの私は、主人公の青年の気持ちを私自身に投影して、彼の寂しさばかり気にしていました。相手の百合子さんが『さびしんぼう』であること、つまり、その内面に、主人公の青年と同じくらいの寂しさや悲しさを抱えていたことに全く気づいていなかったのです。これまでも、何となく、その少女の悲しそうな心の中(うち)は、感じられていたかもしれませんが、それほど注目しておらず、大問題とも思っていなかったのです。ひょっとしたら、これまでの私には、女性軽視の傾向があって、相手を対等な他人と見ていなかったのかもしれません。劇中では、あくまでも主人公の若い男性の視点を中心に描いているため、そのことに気づけなかったのは、仕方がなかったのかもしれません。
 もちろん普通の意味で、その『さびしんぼう』が言いたかったのは、主人公の青年がその少女(百合子さん)に恋したことによって、彼にとっての『さびしんぼう』になった、ということだったと考えられます。しかし、本当は、それだけではなかったようなのです。私の想像ですが、その少女もまた、主人公の青年を『さびしんぼう』と見ていたのかもしれません。主人公の青年は、少女にとっての『さびしんぼう』になったと、考えるのです。だからこそ、この若い二人は、青春の苦い思いをお互いに感じてしまったのだ、と解釈することができると思います。
 私は小学生の頃、『世界は二人のために』という歌謡曲を聴いたことがあります。「二人のため、世界はあるの」とその歌詞にはありました。それとは真逆の現実が、この『さびしんぼう』という映画には描かれていた、とみることができます。この映画を観た後は、そうした歌の『男女の理想の世界』を表現するような歌詞が、何かウソに感じられました。(もちろん、それは私の個人的な意見です。)
 先日亡くなられた野坂昭如さんの歌ではありませんが、「男と女の間には深くて暗い川がある」という歌詞のフレーズを思い出します。しかし、この『さびしんぼう』という映画を観た後は、それは『男女の考え方の違い』とか『男女間の格差』とかいうものが、「深くて暗い川」すなわち深淵(しんえん)を作っているのではないことがわかります。男も女も、お互いに恋して、お互いに寂しい思いをして、お互いにとってお互いが『さびしんぼう』になって、お互いに辛苦を舐(な)めあうということも、十分ありえるわけです。
 こうしたリアリズムを映画を通じて感じさせてくれるところに、大林監督の映像作品の、優れた一面があったと、改めて私は思うわけです。