私のプロフィール 学問の研究のやり方を学ぶ

 「学問とは何か?」
 この問いに対しては、『学問のすすめ』を著した、かの福沢諭吉さんでさえも、「実学」という言葉に「サイエンス」というルビをふっておられる。それ以上は、それほど私たちを納得させてはくれていなかったと思われます。ましてや、その『学問』を実際にどうやって、具体化していけば「学問をした」ことになるのか、ということに関しては、私たちは全く教えられてこなかったし、学ばされてこなかった、と感じることが多かったように思われます。
 特に、「学問を研究する方法」に関しては、その研究室に入って、その場所にしかない研究機材を使って、その研究に関する独自のやり方を見よう見まねで覚えなければ、いっぱしの研究ができないようなイメージがあると思われます。そのためには、お金と時間が必要以上にかかって、多くの小学生に見せて楽しませる科学実験のようにはいかない、何らかの厳しい現実や壁がそこにあるのかもしれない、とまで思わされてしまいます。
 ところが、私は、以下に述べるように、ひょんなことから学問研究のやり方を習得することとなりました。
 それは、高校二年の時、保健の最初の授業でのことでした。私の学年の男子体育担当のN先生は、授業の冒頭でこう話を切り出しました。「お前たちに、俺の保健の授業の進め方について、一つの提案がある。お前たち一人一人に、二千円を出して保健の教科書を買ってもらった。その教科書の内容に沿って授業を進めて、定期テストを行い、その学業成績を五段階で評価する。そういう通常の授業のやり方をするべきか。それとも、各人がこの一年間で一つのテーマを決めて研究して、レポートを書いて、みんなの前でそれを発表し、最後に俺へのレポートとして提出する。という、そういう授業のやり方がいいか。そのどちらかを、今お前たちに選んで欲しいんだなあ。」
 それを聞いて、まず私が思ったことは、後者の授業の進め方に決まったら、せっかく二千円を出して学校から買わされた保健の教科書がまったく無駄になっちゃうな、ということでした。当然、親がその教科書の代金を出してくれていたので、それでは親に悪いな、と思いました。
 そう思っているところへ、N先生はさらにこう付け加えました。「しか〜し、俺の希望としてはだなぁ。お前たちに、後者の授業の進め方で、ぐぁ〜くもん(学問)をしてほしぃんだぁな〜。テーマを自ら決めて、研究レポートにまとめて、それを提出することで、ぐぁ〜くもん(学問)のやり方を学んでほしいと思っているわけだ。ただし、その代わりに、この授業(保健学科)の評価は、クラス全員が『2』ということになるが、それで良いか?」と訊(き)かれました。
 N先生のこの発言に、クラス全体がどよめきました。この授業の成績が『2』だと都合が悪い生徒がいたらば申し出てくれと、さらにN先生は付け加えました。
 N先生のこのような提案は、結局、クラス全体の挙手で決まりました。私も、周りを気にしながら、恐る恐る手を上げました。結果は何と、教科書通りの授業ではなく、各人の自由研究レポートの発表と提出をすることになりました。そのかわり、その時点でクラス全員のこの教科の成績は『2』ということになりました。
 現在の学校だったら、文部省や教育委員会やモンペア(モンスターペアレント)が黙ってはいないと思います。しかし、当時、N先生は、高校二年の生徒自らがそのようなことを判断できるくらい、人間的に成長していると見なしてくれていたのだと思います。16歳か17歳の若者男女には、それくらいの判断ができて、その責任も負えると考えていたのだと思います。
 それに、私も含めて、クラスの生徒は皆、授業で先生から教科書どおりに学ぶということに飽き飽きしていました。それよりも、N先生のおっしゃるところの『ぐぁーくもん(学問)』というものを、やってみたいと感じていました。なぜって、学問の研究の仕方なんて、これから一生、学ぶ機会も体験する機会もないかもしれないと、誰もが思っていたからです。私が通っていた高校の学力偏差値は、その中から医師や学術研究者などが現れるほど高くはありませんでした。皆のほとんどは、日本社会の『中の下』の階層であくせく働いて、社会的地位もそれくらいになるだろうと予想されていました。そんな生徒たちにとって、N先生のこの提案は、まさにその劣等感(コンプレックス)をはね返すだけの何かがありました。
 こうしたことから、私たちのクラスの生徒は皆『ぐぁーくもん(学問)』をすることに、誰も異議を唱えなかったのだと思います。よくよく考えてみれば、あの福沢諭吉さんは『学問のすすめ』で、それを万人に勧めてはいるものの、また、『実学』という言葉に「サイエンス」というルビをふってくれてはいるものの、「これが学問だ!」と青春ドラマのように若者に大空を指さして教えてはくれませんでした。ましてや、『ぐぁーくもん(学問)』の研究のやり方を具体的に教えてくれてはいませんでした。要するに、学問の研究の具体的なやり方などは、大衆の誰もがわかるほど簡単なものではない、ということなのだと思います。教えてもわからない、マスターできない人のほうが多いということなのだと思います。凡人離れした偉い学者さんが、ことさら難しい理屈や言い回しを使わないと、学問の道は究められない、というのが一般的な常識なのです。
 ところで、N先生は、はじめにこんなことを教えてくださりました。学問の研究の仕方には3つある。『文献研究』と『調査研究』と『実験研究』である。まず、『文献研究』とは、図書館や本屋さんなどで、その分野の専門家による著作物を見つけて、それをいくつか読んで、疑問点を解消したり、不明な点を見つける研究方法である。次に『調査研究』だが、そうした書物を調べても書かれていない点に関して、関係機関(たとえば、保健所や役所)へ実際に調査におもむいて、ナマの情報を聞いてくる方法である。答えを知っている人や機関に行って取材したり、アンケートを実施したりして調べる研究方法である。最後に、『実験研究』であるが、人に聞いてもわからない場合や、前例がない場合などは、自ら実験をして調べる必要がある。「百聞は一見に如かず」とよく言われるように、どんなに多くの人に聞いても、時間を費やして調べても、正解をつきとめられない場合があるもので、そういう場合には、自ら実験台になったり、自ら実験設備などを作って実際にやってみてその結果を知ることが有効である。そういう研究方法である。
 以上のことを踏まえて、実際に学問研究をするためには、まず、一つのテーマを決めます。その際に、突飛な発想や前人未到の考えなどは必要ありません。ただ、日常生活で何か疑問があることを調べてみようと、考えることが重要です。その点が、保健の授業でやることとして、ふさわしかったのかもしれません。実際、クラスの皆のレポート発表を見ても、それほど目立ったテーマはありませんでした。私でさえ、一つも記憶していません。しかし、誰かのレポート発表後のN先生のコメントを聞いていると、これはどうなのか、あれはどうなのか、こんなふうだったらどうなのか、といった多彩な事柄が指摘されていました。レポート発表者はそれを聞いて、さらに考察と研究を進めることになるのでした。
 また、N先生にはレポート研究の仕方について、個別に質問をしに行くことができました。放課後などにN先生のデスクへ行くと、3、4人、質問を受けてもらうために、先客が並んでいることがよくありました。個別に決めたテーマの研究の進め方についての、具体的な質問が多かったようです。私の場合もそうでしたが、実際にどのように研究を進めたらよいかがよくわからなくて、N先生に聞きに行きました。
 学問の研究の仕方というものは、実は、ほぼ段取りが決まっていて、次のようなやり方がその一例だったようです。まず、考えたテーマについて、過去に誰かが文書にしていないかを調べます。(文献研究)それで、何もわからなかった場合と、ある程度の知識が得られた場合があるとします。いずれも、実際はどうなのかを調べてみるために、人に聞いたり(取材したり)、アンケートをとったり、実験をしたりするわけです。前にも述べましたが、他人から取材することが適切でなかったり、それが難しい場合は、いろいろと実験をして、問題を解明します。(調査研究と実験研究)
 当時の私にとって、このような授業は初めての経験でした。それまでにレポートを作成して提出したことはあったものの、夏休みのそれとは違って、学校の授業として一年間やっていくこと自体に、不慣れな点がありました。つまり、一つのテーマを一年間、追い続けて、さらに深く掘り下げていかなければなりませんでした。16歳か17歳の若者の一人として、このレポート作成は容易ではなかったと言えます。
 それで私が選んだテーマは、牛乳のテトラパックについてでした。N先生に質問と相談に行ったところ、レポート研究の仕方についてはいろいろ教えていただけましたが、N先生自身は『牛乳のテトラパック』自体にはそれほど興味を示されていませんでした。当時、牛乳のテトラパックは余りにもありふれた日常品の一つでした。「黒田もまた、ほかのやつと同様に、つまらぬことに興味を持ったなあ。2の成績評価が、やっぱり妥当だったなぁ。」と、N先生は内心、思っていたはずです。テーマを決めた私自身、『牛乳のテトラパック』というテーマには、一年間やっていく自信がありませんでした。それで、N先生に相談に行ったのです。しかし、N先生からはこのテーマで一年間やってみるように言われました。何をテーマにするかということよりも、それをどうやっていけば研究のやり方を習得できるかということが大切だったのです。(私がそのテーマで具体的にどうやったかは、機会を改めて述べることとします。)
 今回特に注目したいことは、既に述べた3つの研究方法です。文献研究と調査研究と実験研究のことです。学術や学問の研究と言うと、そのテーマが高度で、常人の手の届かないことが多いかもしれません。が、例えそれが雑学をテーマとしたものであっても、その研究の仕方から眺めると、それほど互いに異なるものではないと、私は思います。
 学術的に認められないものであっても、きちっとした論理で科学的に考えて、研究されてきたものが世の中には少なくないと思われるのです。確かに、某雑誌やテレビなどを見ると、でたらめなものも決して少なくはないかもしれません。しかし、多くの人の目にさらされるほど、偽りはいずれは、その化けの皮がはがされるものと言えましょう。根拠のないものは、やはり説得力がないと見なされます。
 その意味では、最近の日本のテレビで朝昼晩と放送されている各種の情報番組では、レポートの形態をとってはいるものの、その背景にそうした学問的な研究方法が無意識的に使われているように感じられます。そして、それは感心なことです。高度な知識を持つ研究者や学者の思索や行為ではなくても、十分学問的なことが世の中で行われていると、私の目には映るのです。