科学の再現性について

 最近、世紀の大発見とまで謳(うた)われたSTAP細胞が再現できないという問題が関心を集めています。そして、その論文の不備も指摘されています。その論文に書いてある通りに実験してみたものの、STAP細胞を再現できなかったというわけです。論文の文章や画像に不自然な借用や切り貼り(?)があったとかで、あるテレビ番組ではY.M.さんが「文系の学生の論文は切り貼りばかりだ。」とおっしゃられる始末でした。もっとも、Y.M.さんのその意見は、私にとっては面白い意見だと思いました。
 私も、文系の学生で卒業する前、遠い昔に卒業論文を書きました。その折に、『卒業論文の正しい書き方』なる小冊子を一冊二千円くらいで自発的に買って、読んだおぼえがあります。それまでの私は、作文やレポートを書いてはいても、論文を書いたことが一度も無かったからです。その本によると、(卒業)論文では、個人的な空想とか独自の見解を書いてはいけない。それが原則なのだそうです。他人を説得しない個人的な見解や期待・願望を述べることは、論文ではできないと書かれていました。それは、作文であって、論文ではないそうです。
 たとえ、文系の学生の論文で(私の場合は文学作品を題材にした文章で)あっても、原文をしっかり引用して(もちろん、その出典を明確にした引用でなければならないのですが)、科学的に実証的に書いていかないと、それを読んだ担当教授にバカにされます。この学生は、本当にその文学作品を読んで理解しているのかと疑われ、意味のわからない、いい加減な文章の書き方などをしていたら、さらに疑われます。その意味で、その文学作品に関連した批評家や研究者の意見を(出典を明確にした上で)切り貼り(コラージュ)することは、論文の内容に客観性と実証性を持たせるために必要な手段の一つとなっていました。
 そのことを、私の書いた卒業論文を例にして実証したいのですが、その論文の内容上の理由で、文学部の担当教授からその公開を封印されていました。当時の私は、コンピュータ・ソフトウェア開発会社に就職が決まっていましたので、そうした立ち入った文学の内容を教養として人前でひけらかすことは、社会での出世や成功の妨げになったはずです。でも今は、私も年をとって就活などしていませんので、その封印を解いて、私自身の卒業論文の話をしても良いのかもしれません。ただし、それは、またの機会に譲りましょう。
 重ねて言いますが、Y.M.さんの意見はもっともだと私は思いました。他人の意見の切り貼り(コラージュ)ばかりで、「あなたは、いったい何が言いたいの。」と思わずにいられない文系の学生の論文というものがあるのは事実です。自らの意見に自信がなくて、それさえも他人の意見を切り貼り(コラージュ)して、無理やり客観性と実証性を持たせている、そんな文系の学生が少なからずいるに違いありません。それを読んだ関係者みんなを納得させるような、そんな論文を書くのは難しい、ということだと思います。
 しかし、だからと言って、手を抜いたり、功績を焦ってはならないと思います。そもそも、STAP細胞の件についても、その論文の書き方がいけなかったということではないと思います。それが、その問題の本質ではないのです。研究者にとって一番大切なことは、人知れず地道に努力することであって、それは、いつの時代も変わりがないからだと、私は思います。
 科学における再現性は、重要なものの一つであると、私は思います。それを、古い慣習とみなして打破することが賢明だと考える人がいるかもしれません。けれども、「いつ、誰がやっても、同じ結果になる」という価値観を否定することは、ちょっと残念な気がします。
 世の中は多様化して、誰でも人と違うことをしたくなり、それが新たな価値観を生み出すと、誰もが考えるようになりました。それはそれで良いのかもしれません。しかし、科学的なものの考え方の根幹には、本質とか理論とか法則とかがあって、目に見える現象だけでは理解できないものを何とか理解しようとする、人間的な努力や思考があるのです。そのことは、幾何学を知っていた古代エジプト人でなくても、現代人の私たちでさえよくわかっていて、その恩恵を受けているはずなのです。
 例えば、数学の授業の時間を考えてみましょう。先生が「こうやると、できますよ。」と問題の解き方を教えます。生徒たちは、その言葉に従って、先生にならってその問題を解こうとします。そして、それができるようになると、生徒たちの誰もが「なーんだ。そんなのできて当たり前じゃないか。」と思います。「そんな簡単な問題、先生なんかに教えてもらわなくてもできたんじゃないか。」とさえ、考えることでしょう。このように、特に数学の授業では、問題の答えを知ってしまえば、ちょろいものだと誰もが考えます。しかし、なぜ、いつもそういうパターンになるのか、誰もそこまでは考えなかったと思います。「きっと、数学って、そういうものさ。」と軽く思うのが、常だったと私は思います。
 いろいろ考え方はあると思いますが、私はそこに科学の再現性を感じます。つまり、「いつ、どこで、誰がやっても、やり方が同じならば、同じ結果が出る」ということなのです。このことは、ある意味、地道でつまらないことかもしれません。しかし、こうしたつまらないことを、みんなでもっと人間的に考えてみてもいいんじゃないかと私は思うのです。