ブルートレインに乗った思い出

 私は、20代後半に一度だけブルートレインに乗ったことがあります。確か、兵庫県三ノ宮駅から東京駅までを夜10時半から朝の8時くらいまでかかって移動しました。
 実は、その頃、私は大手機械メーカーのN社のK技術研究所(K技研)からの仕事を受注するために、半年ほど兵庫県高砂市のM重工に出向していました。行きは、東海道新幹線山陽新幹線岡山駅まで行きました。岡山駅を出ると、ずっと北側に、あの黒田官兵衛で有名な姫路城(白鷺城)の天守閣が肉眼で見えました。私が一番日本の西側に行ったのは、その岡山駅でした。当時の阪神電鉄で「そね」という変わった名前の駅で降りて、鐘ヶ淵ビジネスホテルという所に宿泊していました。そのナナメ向かいに、高砂南高校という、校庭が広くて校舎が大きい、男女共学の高校がありました。その女子高生のセーラー服が、白から黒に代わるのがわかりました。それくらいの長期間、そこに滞在していました。つまり、私は夏にそこに行って、冬にそこから帰ってきました。(そこでの私の生活ぶりや仕事ぶりは、またの機会に述べることとしましょう。)
 そのビジネスホテルは、昔は鐘ヶ淵紡績(カネボウ)の工場の一角にあった寄宿舎(社宅)だったそうです。カネボウの紡績工場が廃業してしまった後は、運送業者さんの多くが利用するビジネスホテルになったそうです。そういえば、そのあたりは加古川の河口付近を埋め立てて、キッコーマンやМ重工の工場の広い敷地がありました。工場内外の物資の運搬が盛んだったと思われます。ところで、そのビジネスホテルの部屋の中は、テレビと押入れと布団しかない、畳の個室でした。トイレとお風呂と食堂は共同でしたが、私にとっては居心地の良い場所でした。週末になっても東京に戻らずに、日中は近くの商店街へよく遊びに行きました。サンモール高砂のお店では、蒸したとうもろこし一本まるまるが50円で買えました。
 さて、そのビジネスホテルを引き揚げた日の夜に、外注の私とN社の人たちは、M重工の、今度の仕事の発注者にひきとめられました。長期にわたって仕事を引き受けてくれたので、お礼をしたいからと、三ノ宮駅前の料理屋さんに連れていかれました。私たち一行は、その畳の間の個室に通されました。そこで、私は生まれて初めてフグ刺しをご馳走になりました。関西なのでフグは普通なのかもしれない、と思いながらも、フグ刺しをしゃぶしゃぶで食べるのは、すごい贅沢に思えました。(でも、その時に実際に目にした三ノ宮駅前の三階建てのビルが、それから後の阪神淡路大震災で横倒しになってしまったのをテレビで観ました。その時、私は「何てことだろう!」と、まさにそう思いました。)
 夜も更けて、新幹線はもう今夜は来ないよ、とM重工で発注した人は私たちに告げました。でも、『はやぶさ』に乗ると東京に帰れるから、新幹線のホームで待っているといいよ、と教えてくれました。山陽新幹線の単線のホームで待っていると、何とそこへブルートレインはやぶさ』が入って来て停車しました。その中に入ると、二段ベットが向かい合ったような客車でしたが、普通の客車の座席を改良して作ったような、一つ一つが狭い寝台でした。カプセルホテルの個室よりも狭かったのです。向かい合った寝台がお互いに見えないように、カーテンで仕切られていました。また、車窓にも、外が見えないようにカーテンが付いていました。
 私は、硬い寝台に慣れていなくて、夜中にちょっと揺れて、ちょっと目が覚めました。窓の外を、少しだけカーテンを引いて見てみました。すると、昼間の新幹線の列車からは見たこともない、貨物資材置場のような場所を静かにゆっくりと走っているのです。その時に私は気づいたのですが、『寝台特急』とは言っても、走る地区によっては、昔の『鈍行(どんこう)列車』と同じ速度で、ひょっとしたら(貨物列車が通常走っている線路のような)とんでもない場所を走っているのではないか、ということでした。それは、私の思い過ごしだったのかもしれません。宮沢賢治さんの『銀河鉄道』の上でも走っているかのように、その時の私は、少し疲れて少し夢見心地だったのかもしれません。
 夜が明けて、あたりが明るくなると、早く東京駅に着いてくれないかと、電車の外にゆっくりと流れる景色を見ながら思いました。案の定、東京駅に着いてN社の人たちとそこで解散すると、朝のラッシュに飲み込まれました。要するに、私は『寝台特急ブルートレイン』に初めて乗ってはみたものの、旅気分を味わうほど余裕はありませんでした。もっとも、長野県の駅から上野駅へ走っていた鈍行列車は、運賃が安くて寝台が無かった夜行列車だったそうです。それよりも若干、ブルートレインのほうが、乗り心地がよかったらしいのです。以上のようなことが、私がブルートレインに一度だけ乗って感じたことのすべてでした。