遊びか?学びか?

 先日、たまたまEテレの番組『テストの花道 ニューベンゼミ「N1グランプリ」(前編)』の回を見ていたら、『軟式globe』という、ある意味で凄いユニークな音楽ユニットが登場していました。あの音楽ユニットのglobeのパロディーあるいはオマージュのようなスタイルで、数学の公式を音楽に乗せて表現する(公式グルーヴ、と呼ぶらしい。)様は、この番組で紹介されている通り、一種独特の世界観で「一度聴いたら、頭から離れない。」というものでした。
 もしも私が、そのグランプリの開催されたスタジオにいて、審査を頼まれた高校生たちと同様に○×のカードを渡されていたら、◎(二重丸)を出したに違いないくらい、面白かったのです。ただし、それは、現在大人である私の、全くの個人的な意見でした。スタジオの高校生たちは、〇より×を出した人がほとんどでした。『軟式globe』のパフォーマンスは、勉学に真剣な心構えを持つ10代の現役の高校生たちには、不評だったのです。その理由として、「リズムは凄く良かったんですけど、体の動きとか顔とかに集中が行っちゃって、気が散っちゃって…。」というような意見がありました。
 その一方で、お笑い芸人の小島よしお審査員(早稲田大学卒)は、高評価で、「単純に、リズムで覚えるのは、凄く勉強としてはいいと思うんですよ。」というような意見を述べられていました。おそらく、小島審査員は、彼らのパフォーマンスの良い所を見つけてそう言われたのだと思います。
 私の場合は、数学の公式というものに、「覚えにくい」あるいは「ちゃんと正しく記憶できない」というコンプレックスを10代の若い頃から抱(いだ)いていました。そのために、その『覚える数学の公式』を表現している言葉にばかり注意が行ってしまい、彼らの体の動きとか顔とかをちゃんと見ていませんでした。つまり、それらは、数学の公式を覚えるために付け足されたものだとしか思っていなかったのです。よって、数学の公式を表現している言葉だけが、私の頭に残ったというわけです。
 さらに、私が10代だった若い頃は、今の高校生たちよりも、勉学に対しての真剣みが足りなくて、ちゃらんぽらんでした。勉強中に辞書を引いてても、目的の言葉の意味がわかると、つい、その言葉に類似(もしくは関連)している言葉を調べてしまい、今やっている勉強の目的を完全に忘れてしまっている、ということがしばしばありました。好き勝手に辞書を引くことに夢中になってしまい、今までやっていた勉強の本筋から脱線してしまって、ダラダラと時間を過ごしてしまうことがよくありました。それで、いろんな知識や根気(こんき)が身についたのですが、長時間労働ならぬ長時間学習で、勉強の最中に辞書で遊ぶことを覚えてしまいました。いつしか、辞書を引いて遊ぶことに熱中していました。要するに、『学び』の中に『遊び』を見い出してしまったわけです。しかも、若い私は、そのことを気にも留めずに、貴重な10代の青春時代を過ごしてしまいました。
 おかげで、知力や学力が上の学校や、高学歴を必要とする大企業を目指すことはできませんでした。でも、かえってそのことが、現実の社会の姿を知ることとなったのだと思います。例えば、ボランティア活動なんかはそうです。会社に勤めていると、給料(お金)をいただくために、いろいろと我慢しなければならなくなります。いくら働き方を改革しようとしても、そればかりは変えられないと思っている人も多いと思います。ならば、いっその事、利潤追求の目標と、それを遵守する義務をなくしてしまって、仕事や活動に参加してみてはどうかと考えるわけです。ずいぶんと難しい言い回しで説明しましたが、要は、『お金をもらわずに働いてみる』という経験をしてみることが、人間にとって大切なのだと思います。
 すると、「タダ働きじゃないか。」とか「サービス残業じゃないか。」との批判があると思います。「社会に対する、あなたの見方は間違っているんじゃないか。」との批判もあると思います。私は、それらの批判に反論は致しません。その通りだと思います。私は、拝金社会の現状を踏まえて、上記の提案を敢(あ)えてしています。従って、これは、なかなかできないことかもしれませんが、やってみる価値があると思うのです。
 私の場合、本業とは別に、地元の青年部にあたる有志の集まりに参加して、年に幾つかの行事や活動にも積極的に参加しています。この『参加する』ということが大切なのです。責任を自覚してその場を率先して取り仕切るのではなく、周りにいる人たちと歩調を合わせて、話し合いながら、何かの作業を協力して行う。そういうことが、人間関係を良好にし、集団の中での孤立化を防ぐことになるのです。(つまり、普通の人間関係になるわけです。)そうした人間として基本的な経験をすることが、一番大切なことなのだと思います。
 そのような行事や活動は、表向きは遊びかもしれません。けれども、本当は、そうした人間として大切なことを含んでいるのです。現代社会に生きる私たちは、そのような行事や活動さえも、経済効果でしか見ていないような気がします。けれども、本当に大切なのは、金儲けではなく、私たち人間の心なのです。それが基本的にあってこそ、金儲けも大切になると考えていいのではないでしょうか。
 私は、そうした社会的な行事や活動に参加して、わたあめの対面販売などをしています。金儲けが目的ではないので、仕事ではなくボランティア活動だと思ってやっています。つまり、『遊び』なのです。こんな遊びに何の意味があるのか、と他人から問われるかもしれません。「そんな時間があったら、本業に精を出して、1円でも多くお金を稼ぐべきじゃないか。」「そんなことをするヒマなんて、もったいないじゃないか。遊んでいる場合じゃないよ。」と他人から言われるかもしれません。
 別に私は、将来本業ができないほど年老いたら、その時の失業対策として、わたあめ屋さんを始めようというわけではありません。そうした実用的な考えではなく、あくまでも『遊び』として、その活動に参加しているわけです。そして、その活動に私が参加することを決心させたのは、「『遊び』の中に『学び』がある。」という、ある人の言葉でした。
 ここで、やっと私が今回長々と述べてきたことの真意が明らかになったと思います。これまで私たちは、『遊び』と『学び』を別々のものとして理解してきたと思います。現役の高校生たちが、『学び』の姿勢でいる時に、グルーブなどの『遊び』の要素が入ってくると、それを受け入れられず気が散ってしまうのは、そのためだと考えられます。
 一方、私が辞書を引くことに遊びを覚えたり、わたあめ屋さんの遊びから何かを学び取ったりすることも、現実にはありえるわけです。つまり、『学び』の中に『遊び』があったり、『遊び』の中に『学び』があるのです。これに限らず、実は、この世の中は『遊び』と『学び』が混然一体となっているという見方ができるかもしれません。私たち人間は、それを『遊び』と『学び』の間に線引きをして、この二つを区別して考えてきたのだ。と、そのように理解することもできると、私は思います。