私のプロフィール 子供の心は移ろいやすく…

 今回は、私の初恋の時に起きた小さな事件について、まず述べてみたいと思います。私が初恋を経験したのは、小学校4年生の頃でした。その時の私は、年が一つ下の女の子を好きになって、初めてドキドキしました。しかし、テレビのバラエティー番組のような、『胸キュンスカッと』のような心の様相ではなく、ジメジメしてモヤっとしたものでした。私は、相手の女の子にどう気持ちを伝えたらいいのか、どう付き合っていったらいいのか、具体的な経験がなかったので全くわかりませんでした。そのため、このことを親にも友達にも打ち明けられずに、一人で悶々(もんもん)とため込んでいました。それが、私の初恋の体験でした。
 そして、そんな或る日のことです。私は、家族と夕食を食べていました。母親と妹と弟が、その席にいました。私は突然イライラして、同席の家族の前でこう言い捨てました。「こんな世の中なんて、イヤだ。こんなんじゃ、僕は、首切って死んじゃうぞ。」
 すると、母親からすぐ返事が返ってきました。「お前、何てことを言うんだ。」それだけでした。妹と弟は、普段は大人しい兄である私が、いきなり爆発したことに、唖然としていました。私の母にしても、なぜ私がそんなことを口にしたのかなんて考えていなかったと思います。ただ大人として、そういうことを口走った私に、注意をしただけのことでした。
 その時の私は、9才か10才の子供でしたが、親との絆とか、家族の絆とかいうことを余り感じていませんでした。親や家族からは精神的に離れて自立しようとしていたので、それで、全くの他人の女の子に初恋をしたのだと思います。しかし、全くの他人に私自身の気持ちを伝えたり、付き合っていったりする方法を知らなかったために、周囲の世界が私自身の思い通りになりませんでした。私は、その思い通りにならないことにイライラして、そんなことを口走ってしまったのです。
 私は、大人から「お前、何てことを言うんだ。」と言われてどうなったかというと、どうにもなりませんでした。それから半年くらいたつと、こじらせた風邪が治ったみたいに、その女の子を何とも思わなくなりました。その子の何が好きだったのか、全くわかりませんでした。つまり、恋をして、あんなに苦しい思いをしたにもかかわらず、その熱の冷め方があっけなく、そっけなかったので、子供の私自身がいかにチャランポランだったのかがよくわかりました。
 ここまで述べてきたことから、私は一つの仮説を立ててみたいと思います。人は、大人になったり、親になったりすると、自分自身の子供の頃の気持ちをつい忘れてしまうもののようです。そして、子供の気持ちがわからないとか、若い人の気持ちがわからないと、つい嘆いてしまうもののようです。しかしながら、大人が、子供や若い人の気持ちを知りえないことは、当たり前のことなのです。それを何とか知ろうとすることこそ、大人もしくは親の『一種の思い上がり』と言えましょう。なぜならば、そうした子供や若い人の抱く『どうしようもなくイライラする気持ち』を卒業できたからこそ、大人や親になれたと言えるからです。
 微妙な問題を含むとはいえ、敢えて私は若年層の人たちにこう主張します。「周りが自分の思い通りにならないからと言って、自爆テロや自殺に走るなんて何ごとだ。あなたのその言動で、被害者や犠牲者を作るのは、私は大人の一人として、見るに耐えないし、聞くに耐えない。」
 最近私は、あるテレビドラマで(もちろんフィクションですが)、『平成維新軍』という架空のテロ集団が登場するのを楽しみにしていました。「この国の未来のために。」とかいう合言葉で、格差社会をもっともな言いわけにして、日本社会を混乱させることを目的とする若年層のテロ集団なのですが、私なりに関心を持ってしまいました。「周りが自分たちの思い通りにならないと、周りを困らせるような行動に出てしまう。」という点が、余りに子供っぽくて、(私としては)笑えてしまうのです。
 先日の放送でも、テロ組織に共謀して捕らえられた少年が、警察の取り調べ室で「僕たちはこの国の英雄なんだ。」と言って笑みを浮かべていました。このドラマを制作したスタッフの意図は、テロリストの不気味さをそのようなシーンで表現することにあったと思います。確かにその通りだとは思いましたが、そのシーンをテレビで観ていた私は、その時は別のことを考えていました。「お前、何てことを言うんだ。あんなことを言わなくてもよかったとか、あんなことをしなくてもよかったと、いずれ考えが変わった時、お前はどうするの。お前の言動を今でも正しいと信じているご両親を、被害者や犠牲者にすることは、私には見るに耐えないし、聞くに耐えない。」