あの頃に欲しかったタイプライター

 最近、私は、梅棹忠夫さん著の『知的生産の技術』という岩波新書の本を手元に見つけました。その裏表紙をめくると、1976年の4月3日(sat.)に神田駿河台御茶ノ水)の三省堂で買ったことが記されていました。さらに、1976年の4月11日(sun.)に読み終えたことまで記されていました。実は、その筆記は、私がその本を読んだ内容の一部を実行した結果に過ぎませんでした。
 その著者自身も、『おわりに』という章で、「実行がかんじんである。」とか「自分で努力しなければ、うまくゆくものではない。」とか書かれています。だから、15才の私は、この『知的生産の技術』という本に書かれていたことを、できる範囲で実行に移していたわけです。
 B4判の画用紙を買って来て、それを4等分して、B6判のカードを作りました。京大型カードといって、その本に書いてあることに従って、何枚もそうしたカードに手書きで何かを書き込んでいました。結局、そうした作業はただの真似ごとに終わってしまいました。何の役にも立たず、『もの』になりませんでした。
 しかし、この本には、中高生の私には到底理解できない大切なことが書かれていました。大学生レベル以上の人が、膨大な情報や知識やデータなどを相手にどう勉強したらいいのか、どう研究をすすめたらいいのか、ということのノウハウが書かれていたのです。当時すでに、高度情報化社会に対処するための知的技術の一つが確立されていたのです。いわば、それはコンピュータが普及する以前に考案された一種の情報処理技術でした。京大型カードもまた、その具体的な技術の一つでした。そこで重要なのことは、『情報の規格化』ということでした。
 なぜ情報を規格化するのか、と言いますと、勉強の仕方や研究の進め方を効率化して合理化するためです。このことは、日本語を使って知識を学び、日本語で思考し、日本語で文書化することに共通した問題点があったことを物語っています。言い換えれば、日本語を使ってきた日本人に共通の問題点があることを明らかにしていると言えましょう。
 日本人は、平仮名とカタカナとローマ字と漢字を知らないと日本語を表記できないという、宿命的な欠点を背負っています。日常会話や俳句・短歌・川柳などの短文だったら、手書き表記のレベルで誰でも日本人は苦もなくできると思います。しかし、長文となると、小手先の手書き表記のレベルではできません。複雑な内容を文章で伝えるとなると、識字率の高い日本人でさえも、お手上げになることが多くなります。文章をいくつかのブロックに分けたり、論理的な整合性にも気を配らなければなりません。勉強することは、さらに山ほどあるのです。
 しかし、漢字やその熟語はそれ以上に学ばなければならないし、それに関連して学ばなければならない日本語の言い回しも半端な数ではありません。私が二十歳になるまでに学ばなければならなかった日本語にまつわる知識は、その習得に膨大な時間と手間がかかったと言わざるをえません。
 10代の頃の私は、平仮名とカタカナとローマ字と漢字が無いと日本語の文章が十分に書けないという現状に不満を持っていました。日本語の文章を書けば書くほど、時間と手間と労力がかかることを辛く思いました。このままでは、将来大人になっても、ちゃんとした文章を書けなくなるかもしれないと、不安に思っていました。
 そんな時に出会ったのが、その『知的生産の技術』という本だったのです。この本によると、『ペンからタイプライターへ』という章で、カナモジ・タイプライターや『ひらかなタイプライター』について紹介されていました。実際にタイプされた文書の例まで図示されていました。
 当時、タイプライターと言ったら、英文タイプライターはあったものの、和文タイプライターは何十万円もして、中高生のお小遣いでは全く手が届きませんでした。それに、タッチ・キー方式ではなくて、活字を拾っていく方式だったので、かなりの手間がかかりました。印刷屋さんにあって、印刷の依頼をすると、高額の印刷料を取られました。当時、手書きで印刷する方法としてガリ版刷りとその道具なんかが学校に常備されていましたが、私のような字が下手な人間にとっては、時間と手間がかかった割には、刷った字が読みにくくて辛い思いをしていました。
 だから、あのカナモジ・タイプライターや『ひらかなタイプライター』を、私は欲しかったのです。きれいな活字で、読む人に読みやすく、書く人に書く時間と手間をかけさせない。そのように日本語の読み書きを楽にして、かつ、効率化してくれる機械が、あのようなタイプライターでした。ただし、私が実際に入手できたのは、英文タイプライターまででした。
 ところが、時が過ぎて、日本語ワープロ専用機が一時普及して、そのうちパソコンが普及すると、そうした事態は全く変わりました。誰も、印刷屋さんに活字印刷など頼まなくなりました。原稿を書く人自身がそれらの機械を操作して、印刷までできるようになりました。パソコンに向かって、じかに原稿を作ってしまうなんて、私の年代では電気代がもったいないような気もしました。けれども、一度書いた文字を簡単に修正(編集)できるのは、従来の文字の書き方からすると資源と時間と労力の節約になっていると思います。
 しかも、日本語のタイプライターの働きとしてパソコンで最も優れていたのは、かな漢字変換方式だと思います。日本語ワープロ専用機のほとんどは、かなキーで打たれた言葉を漢字に変換していました。一方、パソコンでは、それと同じ方式もあったものの、英字キーで打たれたローマ字入力が、まず『ひらがな表示』に変換されて、さらに候補選択で漢字や記号に変換できるようになっていました。ジャストシステムの開発した『一太郎』という日本語ワープロソフトが昔ありましたが、そのソフトには、『ATOK』(エートックと呼ばれていました。)というかな漢字変換ソフトが付いていました。『A』はアルファベット(英文字)で、『K』は仮名や漢字のことです。アルファベット(英文字)を仮名や漢字に変換するソフトという意味だったようです。
 このように現代のパソコンによる文章作成の方式は、個人の利用はもとより社会に広く普及して便利に使われていると思います。電気が無いと、機械が動かなくなるのが唯一の欠点かもしれません。あの頃のカナモジ・タイプライターや『ひらかなタイプライター』は、当時の英文タイプライターの流れをくんでいて機械的・物理的に動作しました。電気は要りませんでした。ただし、欠点は、印字リボンが消耗品であったため、紙への印字が薄くなったら、印字リボンを取り換えなければなりませんでした。
 また、打ち間違えがあると、文字レベルの小さな間違えはその場で修正できましたが、文や段落レベルの間違えは、紙一枚全部を打ち直さなければなりませんでした。それは、現代のパソコンでも、印刷後に見つかった誤字脱字のために、画面で修正して印刷し直すのとそれほど変わらないかもしれません。(勿論、現代のパソコンの方が、修正も印刷も自動的で、簡単かもしれませんが…。)
 私の好みとしては、電気が無くても使えた、あの頃のカナモジ・タイプライターや『ひらかなタイプライター』が、おもちゃとして復刻したらいいと思います。多少の実用性を残して、それほど一般的に普及しなくても、「こんなものもあるのか。」とか「この手もあったか。」と言われて使われたら、きっと、それなりの便利な使い方が生まれるかもしれません。