煩悩について思うこと

 煩悩とは、例えばはてなキーワードによると、「人間の身心の苦しみを生み出す精神の働き。」という意味の仏教用語だそうです。そして、私にとって、それは大晦日の夜から元旦にかけて、お寺から聞こえてくる除夜の鐘から連想されてくる言葉でした。『煩悩』というその言葉に、一年の間に最低一回は気づかされます。ところで最近、お寺の近所に住んでいる人が、除夜の鐘がうるさいと苦情を言っている、というニュースを耳にします。本当にうるさいのかもしれませんが、もしかしたらそれも一つの煩悩なのかもしれないと考えたりします。
 私の東京の実家は、お寺さんから少しだけ離れた場所にあります。そのため、風の向きに左右されて、鐘の音が聞こえたり聞こえなかったりします。除夜の鐘が聞こえる時は、その音が風に乗ってかすかに聞こえてきます。そして、不思議なことに、雨戸を閉めた私の寝床がある部屋では、そのお寺さんの反対方向から、鐘の音が聞こえてきます。おそらく、家の近くのその方角にある少し高いマンションの壁に、お寺さんからの鐘の音が反射して聞こえてくるためだと思います。
 先日の晩、夜中に床について耳をすましていると、除夜の鐘が、一つ、時間を少しおいて、また一つ、と聞こえてきました。ほどよい長さ、響き、柔らかな音色で、かすかに聞こえてきました。それを、一つ一つ私は数えていたのですが、八つか九つあたりで眠りに落ちてしまいました。百八つくらいお寺の鐘が打たれるかどうか、数えて確かめてみたかったのですが、(後でちょっと残念に思いましたが)深い眠りに入ってしまいました。
 ところで、最近気がついたのですが、日本のお正月と欧米のクリスマスの風習は、それほど大差ないように思えました。これまで私は、クリスマスイブのイブが”evening”のイブ(前夜)だということを知りませんでした。恥ずかしい話ですが、「アダムとイブ」のイブだとくらいしか思っていなかったのです。日本のお正月で、元旦(1月1日)の前日前夜が大晦日であることや、お正月の三が日がクリスマス休みのように連休であることを考えると、それらは類似しているように思われます。地球の北半球では、それらはどちらも冬至以降に予定される冬の行事です。だから、無病息災をこの時期に願うのも、何となく理にかなっています。
 そういえば、私が東京にいた子供の頃には、「大晦日には、年越しそばを食べるもの。」という情報が、どこからか当たり前のように伝わっていました。ところが、当時私の東京の実家では、毎年大晦日の夜は、塩鮭あるいは新巻鮭の切り身を焼いて、白いご飯を食べるものと決まっていました。私の祖父も祖母も、長野県北部の出身者であり、嫁に来た私の母も長野県北部の出身者でした。しかし、私の父は、私の祖父母が浅草に在住している時に生まれたので、その大晦日の食事に、毎年疑問を持っていました。それで、私が子供の頃に、大晦日になると、「どうして俺の家は、大晦日に年越しそばを食べないんだ。周り近所は、みんなそうしているではないか。」とか「俺は江戸っ子だ。」とか言いわけをつけて、一人だけ近所のソバ屋さんに注文をして、年越しそばを食べていました。
 そんな私の父は、戦中時の子供の頃に長野県の柏原にある親戚の家に疎開して、戸籍に記載された本籍地もそこになっていました。しかし、疎開先の親戚のおじさんやおばさんに意地悪されて、長野県のことが嫌いになってしまいました。よって、長野県の風習を、よく知ろうとしませんでした。大晦日に魚と白飯を食べる風習は、私の祖父母や母にとっては、おのおの生まれ育った場所で当り前のことだったのですが、私の父にとっては、前々から納得のいかない未知のしきたりに思えたようです。
 実は、このような大晦日の習慣は、『年取り魚』(「としとりさかな」とか「としとりうお」)といって、日本では、年越しそばよりも前からあるらしい古い習慣だったようです。私の父は、残念なことに、そのことを一生涯、知らないで、今から17年前に亡くなってしまいました。一方、私は、最近になって、長野県の地方局の情報番組で、年取り魚のことを知りました。「大晦日に鮭のクリーム煮はいかがですか。年取り魚の料理をアレンジして食べてみませんか。」という趣旨のテレビ番組でした。この年末年始に帰省した私の東京の実家では、大晦日に年越しそばも年取り魚も食べなくなりましたが、私が幼い頃に生じていた謎や疑問がこうしてスッキリ解消して、よかったと思いました。
 ここで話変わって『煩悩』と言えば、去年のいくつかのニュースを思い出します。その一つは、あるストーカー事件についてでした。日本のストーカー事件は、凶悪なものが起きるたびに、その法規制が厳罰化されてきました。セクハラに関してもそうですが、被害者の側から、厳罰化を望む声が日に日に強くなってきています。その背景には、他人に対する不安感というものが根強く関わっているような気がします。
 私がテレビのニュースで観たストーカー事件では、被害者の男性から訴えられて、一人の若い女性が警察に逮捕されました。二十歳を過ぎたその女性の名前も顔も、テレビのニュースの映像で明らかにされていました。また、男性から訴えられる原因となった、電子メールの内容も、テレビのニュースで明らかにされていました。そうしたことで警察に予期せずして逮捕されてしまった若い女性の姿を、テレビのニュースの中で拝見しながら、私は冷静にこう考えました。「何てことだ。あの加害者の女性は、片思いをしていただけじゃないのか。」と、私はその時に思いました。「社会的な法規制を強めれば、あるいは、厳罰化すれば、世の中から悪いことがなくなり、人間を管理できる。」と考えることが、いかに恐ろしいことかを私は感じました。もう、こうなったら、今の社会の中でストーカー加害者にならないように自らを守るために、男性の私は、あらゆる相手の女性を妖怪かエイリアンと見なして近づかないようにするしかない、とさえ考えてしまいました。
 また、もう一つのニュースは、横綱日馬富士の引退となった一連の事件についてでした。私は相撲ファンではありませんでしたが、来る日も来る日もニュースや情報番組でこの事件と問題が取り上げられていて、つい、それらを熱心に観てしまいました。被害者とか暴力とかいう言葉を、何度も何度も聞かされて、さすがに閉口しました。そんな私が、やっと一息つくことが出来たのは、元横綱日馬富士だったモンゴルの人が自国語でよんだポエムでした。モンゴル語から日本語に翻訳されたものが、テレビのワイドショーで放送されていましたが、何となく現在の彼の心境がわかるような内容でした。
 彼が横綱を引退してしまったことは、相撲ファンにとっては残念なことだったかもしれません。しかし、彼にとっては、日本の相撲界を引退することによって、やっと横綱であることの重圧と責任から解放されて、被害者に謝罪することが当たり前にできる立場になったと考えられます。
 ちなみに、私は日本人ですが、相撲ファンではないので『横綱の品格』というものがどういうものかわかりません。「サッカーで手を使うと、他人に危険を及ぼす。それは試合でも練習でも反則になる。日ごろのマナーにも反する。」というルールと同じだと説明されない限り、外国人と同じように私も理解できないと思いました。
 また、刑事ドラマのフィクションの中でしばしば検証されているように、どんな加害者においても、被害者の側面を持っているものです。期せずして加害者になってしまうことだって、人間誰しもその可能性がないとは言えません。ですから、やはり罪を憎んでも他人(ひと)を憎んではいけないと思います。
 とは言うものの、人に迷惑をかけること、所属している組織の中で勝手な振る舞いをすること、そうしたことは、いかなる大義名分があろうとも、許されないことです。そうした人間は、組織の中でいかなる地位を持っていようとも、それを捨てて、その組織を辞めるべきだと、私は個人的に思っています。このことは、自己に対しても、他人に対しても、ウソをつかない礼儀と言えるものなのかもしれません。
 話が長くなってしまいましたが、今回の冒頭部分で述べたように、私が煩悩を百八つ数える前に眠ってしまったことをここで再び考えてみていただきたいと思います。一つ一つの除夜の鐘に耳をすましているうちに、私は安らかな眠りについてしまいました。このことが何を意味するのかを申しましょう。つまり、それはこういうことです。現実をあるがままに受け入れることも、時には必要だ、ということです。そして、そのほうが人間にとっては幸せなのかもしれない、ということだと思います。