成人式について考えていたこと

 今日が今年の成人の日だということなので、成人式について私が今まで考えていたことを記述したいと思います。人それぞれ考え方があるので、どの考え方が一般的かはテレビなどで言われていることが一番妥当だとは思います。けれども、私だったらこうじゃないかというのが一応はあるので、述べてみたいと思いました。
 まず、私が成人式を迎えた日について述べてみたいのですが、一言で言うと、一種の『通過儀礼』に過ぎませんでした。その日、母や父から「おめでとう。」という言葉を言われました。その日の前に、父から高価な万年筆をもらいました。足立区主催の『成人の日の集い』に参加するために足立区の文化会館に一人で出かけました。集いに参加したほとんどの人たちは、式典が終わると会場から出て行きました。私は、会場に残ったわずかの人たちと同様に、世間でそれほど知られていない、ある作家さんの講演を聞いてから帰りました。以上が私の場合ですが、成人の日を境に何かが変わったということはありませんでした。
 私の家族は、大家族であったため、今の核家族と比べて、大人の人数が多い家庭でした。今の核家族は、子供中心の家庭が多いような気がします。それに比べて私の家庭は、大人が中心の家庭であり、子供の意見が家族全体の意見になることはありえませんでした。事実若い頃の私は、家族内で誰かを批判したり、家族内の取り決めに背いたりしたことがありません。家族で行動することに全て従ってこそ家族の一員である、と思い込まされていました。
 また、子供の頃から叔父さんや叔母さんが二十歳になるのを見てきたせいもあって、この日は若者が『大人の仲間入りをする日』というイメージを持っていました。つまり、人間は70歳のお爺さんでも20歳のお兄さんでも同じ大人であり、社会的に権利や義務を持つ『大人』としては平等なのだと考えていました。家族や会社における年功序列や上下関係とは別に、『大人』という枠組みが世の中にはあると思っていました。
 よって、ここ数年ニュースで見たことのある『荒れる成人式』の若者のような心境は、私は経験したことがありません。あれは、結婚式のマリッジ・ブルーにちょっと似ているような気がします。大人になった実感がわかないうちに、みんなと同じように礼服を着せられて、いきなり今日から君は大人だよ、大人になりなさいと、他人から言われて、びびらない人間がいるでしょうか。私がもしそういう立場であったらば、相当あわてたと思います。
 私が二十歳になって、そうならなかったのは、大人になればもっと自由になれるとか、思わなかったからだと思います。成人式は、あくまでも通過儀礼であり、その前後で家族との関係が大きく変わることも無いし、社会的な地位や職業上の待遇が変わるわけでもありません。成人式や成人の日は、社会制度的で形式的なものにすぎないと考えていました。だから、成人式などやる必要は無い、という意見も一時世間にはあって当然だと思いました。
 よくよく考えてみれば、二十歳になった若者本人よりも、それを二十歳になるまで苦労して育ててきた親を祝福する日であると考えてもいいのではないか。そう考えたほうが、理にかなっているのではないか。と私は思いました。私に「おめでとう。」と言ってくれた父や母を祝ってあげるべきだったのです。二十歳まで無事に育ってくれた子供を通じて間接的に、その親が社会から祝福される日と一般的に思われたら本当はいいのではないか、と思っています。