選挙とは、結局どういうものなのか?

 私の半生を振り返ってみるならば、都知事選にしろ、都議会議員選挙にしろ、国政選挙にしろ、私が投票した候補者や政党は、ことごとく落選することが多かったと思われます。以前書いたように、私は左翼的な考え方を少しだけ知っていたにもかかわらず、共産党やその候補者に一度も投票したことがありません。唯一、□△先生に一票を投じたら当選されましたがどういうわけか、議員をまもなく辞められてしまいました。私にとっては、一票の重さなんて感じられないというのが、正直な意見です。しかし、それに懲(こ)りて選挙に行かないということは、考えたこともありませんでした。
 選挙に行かない人たちや、無党派の候補者ばかりに投票する人たちの気持ちが、私にはわからないでもないのです。そうした人たちの考えはもっともだと思います。誰に投票したところで、何の利権もなければ、自らの投票自体がムダだと考えるのが自然だからです。彼らは、何らかの大人の利権がからむ『選挙』というものを否定しているわけです。
 いろんな大人の欲望や利権がいろいろとからんでしまうのが、大人の『選挙』の世界なのです。言い換えれば、二十歳(はたち)未満はお断りの世界だったのです。よって、学校で選挙の仕方を教えないのは、そのためだったのだと、それが根拠にされてきたのだと思います。
 よって、今日までの日本では、有権者の側から、民主的とはどういうことなのか。選挙とはどういう仕組みで、その効力の限界はどこまでなのか。ということを、二十歳(はたち)以上になって改めて各人が、社会の中でバラバラに経験して学ばなければならなかったのです。ひょっとすると、一生、それを学ばず、一度も選挙に参加しない人が現れるかもしれません。
 実は私は、そのようなことを問題視していません。そんな成人がいたとしても、小中学生の頃には学級委員を選ぶのに参加していたはずですから。思った通りの人が学級委員になったからといって、何の利権ももらっていなかったと思います。ただの多数決で、学級委員の役割を責任持ってやってくれる人を選ぶのに、同級生のみんなと協力しただけなのですから。その多数決を経験することこそ、民主主義を学んだことに知らず知らずなっていたのです。(ちなみに、私は、要領が悪かったせいもあって、学級委員に選ばれて、やらされることが多かったです。)
 石原元東京都知事が「大同団結」とおっしゃられていますが、それは高い理想の上にこの日本の政治が運営されることを希望して主張されていると思われます。「若い人間は何やっているんだ。」と叱責されています。それでは「高い理想を持った若い人間」が日本のどこにいるのか、示して欲しいものです。「そんなこと俺は知るものか。」と確実に答えられるでしょう。ならば、その『暴走老人』が、高い理想を持った人間としてのお手本を、日本国民にちゃんと責任を持って示すべきだと思います。
 有権者の一人として申し上げるならば、私が一票誰かに投票したところで、何も変わりはしないと思います。そんなことは当たり前のことです。日本の政治は誰がやっても同じかもしれません。誰もが考えているとおりです。そのかわり、それは誰にも投票しない方がいいということにはなりません。誰に投票したらいいかわからないからなどの理由で、投票する権利を放棄するということは、誰の支配にも従いますという意味であり、国や行政のいかなることにも逆らわず、『でくのぼう』として生きていくことを自ら認めたことになります。
 ですから、特に二十歳以上の若い人たちは、どんなに迷ってもいいから、間違ってもいいから、誰かに投票してください。その選挙の結果は、かつての私が経験したのと同じように、必ずしも思わしくないかもしれません。なぜなら、選挙というものは、個人の希望や願いが通ると決まっているものではなく、ただの多数決にすぎないからです。よく少数党の議員の人たちが、国会は数の力だ、数の世界だと言われていますが、候補者の当選と落選にかかわった有権者すべてがその数の力を思い知らされているわけです。選挙とは、民主的とは、結局そういうものなのです。従って、たとえ選挙の結果がどうなろうと、選挙の結果が出るということ自体が「大同団結」なのではないかと思います。