気持ちの敷居

 今回も棄権せずに、選挙の投票に行って来ました。前日までの天気予報によって、今日当日は天気が悪く、降雪と積雪のために投票所へ行くことが困難になることが予測されていました。いつものように車で最寄りの投票所へ行くのは、タイヤが雪でスリップする恐れがあったので、傘と長靴を用意して徒歩で行くことに決めていました。実は、期日前投票も考えたのですが、その事由の欄に、「天気が悪くなりそうだから」などという項目が無かったため、○が付けられず、期日前投票をしに行くのをあきらめていました。
 結果的には、午前10時ごろに、天気が良くなって日が射してきました。なので、長靴をはいて出かけることにしました。5センチから10センチくらい雪が積もっている場所が所々(ところどころ)にあったので、足をすべらさないように気を付けて、地元の生活改善センター(公民館の別名)の投票所へ出かけました。
 行きは徒歩で坂を下って20分くらいで目的地に着きました。私の今住んでいる地元では、車が通れる道と、人が通れる道が別々のルートになっていることが多く、徒歩で行く道のほうが近道になっていることがしばしばあります。今回の投票所へも、その近道の一つを通っていきました。ちなみに帰り道は、上り坂でしたが、天気が良かったせいもあって25分くらい歩いて今住んでいる所へ戻ることができました。
 午前11時前に、その投票所に行ったところ、いつもと少し気配が違うことに気が付きました。建物の前の駐車場は、車でいっぱいでした。また、投票所では、いつもよりも人がいました。選挙管理委員会の人たち以外の来客した人たちの数が、意外と多く見えました。晴天で空気がやや暖かい時間帯だったせいもあって、選挙で投票に来る人が多く見えたのかもしれません。いつもの選挙とは、場の雰囲気がかなり違く思われました。
 今回私が感じたことは、ただそれだけだったのですが、ちょっと余計なことも考えてみることにしてみました。投票に来る人が多いと、選挙ってそんなに特別なことじゃないのかもしれません。もちろん、投票用紙に候補者の名前や政党名を書く時に誤字脱字をしまいかと緊張して、その緊張感がイヤだという人も少なくないことでしょう。あるいは、投票した候補者や政党の立場がどうなってしまうのか心配するのがわずらわしい、という人もいることでしょう。誰でも一度はそんなふうに考えることがあるのかもしれません。選挙の投票システムが、個人に大きな負担をかけずに、しかも個人の意思を表明できるように工夫されていることに、気付いて安心している人は少ないかもしれません。
 地元の生活改善センターでは玄関口で靴を脱いで、一段高い敷居をまたいで廊下や畳敷きの部屋(投票所)に入ります。その玄関口は、学校の体育館の出入り口と比較すると、間口が広く作られています。今回私は、雪道が滑ったら危ないので長靴を履(は)いて歩いて行きました。それで、その玄関口で長靴を脱いで敷居をまたいだのですが、それほど違和感がありませんでした。長靴で来たことに誰かに注意されるとも思われませんでしたし、実際そのことを誰かから注意されることもありませんでした。
 しかしながら、世の中にはちょっとしたことに注意深くなるタイプの人がいらっしゃるのもまた事実です。何を隠そう私の父は、そういうタイプの一人でした。私の父は、自営業で溶接をしていて、作業場で働く時にはいつも作業着でした。けれども、選挙の投票をしに、近くの中学校の体育館へ行く時は、頭髪を整えて背広を着込んで、容姿をキリッとして家を出かけていきました。選挙になるといつもそうだったので、そんなにキチンとしなくてもいいのでは、と私の家族の間ではささやき合っていました。私の父は、それでも、その習慣を変えることは一生できませんでした。
 私の父の気持ちを考えてみると、選挙で投票しに行くということは、人前に出ることであり、特別な行為の一つだったようです。従って、一般大衆から変な目で見られることは許されず、実際は普通の『おやじ』と見られても、ちゃんとした服装でキリッとしていないと、自らの気持ちが許せなかった、すなわち、満足できなかった、ということなのでした。そんなに他人から注目される人物ではなかったにもかかわらず、このように私の父は自意識過剰でした。
 とはいえ、もう一つ別の見方もできると思います。私の父が選挙で近くの中学校の体育館へ投票しに行くだけで、そんなにキリッとした格好をしていたのは、選挙というものに対して高い敷居を感じて緊張していたからなのかもしれません。その極度の緊張により、本当は選挙に行きたくなかったのかもしれません。だけど、選挙に行くことは、大人の義務として仕方ないと思っていたのかもしれません。(今でも、選挙の『権利』を『義務』と思っている人が多いことも事実と言えましょう。)
 本当のことを言わせていただければ、選挙自体には、私の父が意識していたそんな敷居の高さなど無かったのかもしれません。投票者は、選挙に投票したくらいで、その人の格が上がるわけではないのです。あくまでも、その人はその人のままなのだと思います。そう思えば、それはその人の気持ちの上だけで意識している敷居の高さであって、実際上はどこにもそんな敷居は存在すらしていないわけです。
 私は以上のように考えを進めて、選挙の投票所に行ってそれほど私自身が緊張しなかったことの理由を理解しました。今回私の気持ちの上では、このことに関してそれほど敷居は高くなかったようです。