『民主主義』のヒミツは『秘密投票』にあり

 何だか謎めいたタイトルになってしまいましたが、衆院選投票率アップに躍起になっている昨今のメディア報道に補足の説明をいたしたく思います。若者の気持ちを同調意識やムードだけで動かそうとすることには、新型コロナウィルスの問題もそうですが、私には気が引けます。もっと、体系(システム)的かつ論理的な議論や説明をしていかないと、本質を見誤ることになるのかもしれません。そこで、今回私は『秘密投票』をテーマにして論じてみたいと思います。
 『秘密投票』などと言うと、親が子供に内緒でこっそり隠れて選挙の投票所に行くイメージを持つ人がいらっしゃるかもしれません。けれども、それは全然違います。現に、私が子供の頃は、選挙の投票日になると、私の父は朝早く選挙の投票所に行って来ます。帰ってくると、なぜか胸を張って、私の母や祖父母に「俺はもう投票してきたぜ。家の留守番をしてやるから、さっさと投票に行ってきな。」などとしゃべっていました。最近のSNSやインスタで「#期日前投票に行ってきました」などと表明するのと、それほど変わらないやりとりが当時の私の家庭内でも行われていたわけです。そこで、何が『秘密投票』あるいは『投票の秘密』なのかと申しますと、誰が誰に(あるいは、何党に)投票したのかを明かさないところにあります。
 つまり、「有権者が、どの候補者に投票しても、その責任を問われない。」ための仕組みが、この『秘密投票』のシステムなのです。これがあるおかげで、私たちは、誰に投票しても罪に問われたり、誰かの意にそぐわない投票をしたがために報復を受けたりすることから、身を守られているわけです。例えば、選挙前に近所のおばさんに「今度の選挙は、△□党の○×さんに投票してくださいね。」と頼まれたとします。実際は、別の候補者に投票してます。しかし、選挙後にそのおばさんに「投票してくれましたか。」と聞かれます。それで、「はい、△□党の○×さんに投票しました。」とウソをついても、罪には問われません。
 また、政治と金の問題で、地元の投票で当選した議員さんが悪いことをしたとしても、有権者は誰も罪には問われません。それは、その議員さんが罪に問われた裁判を観てみれば明らかです。しかしながら、地元の有権者のおじさんに街頭でインタビューをすると「俺たちが選んだ議員が不正を働くなんて、アイツは本当に地元の恥だ。」などと答えていらっしゃいました。もしも『秘密投票』のことがわかっていたならば、そのおじさんは、「俺は,アイツに投票していないけれど、金の問題はよくないな。」というくらいにして、しらばっくれていればいいのです。つまり、本当は、政治と金の問題のために、有権者がトラウマをかかえる必要なんかないのです。このようなことからも明らかなように、有権者だからといって、無理に正義を振りかざすことや、清く正しくあることを日本国民の誰にも求められてはいない、と私は思っております。
 したがって、『民主主義』とは、「道義的に正しくある」ことよりも、「民(たみ)一人一人の自主的な意思と言動」を尊重して、それを喚起するものなのです。実は、『自由』は、各人が好き勝手に暴れ回るためにあるのではなく、そのような民(たみ)一人一人の活力を生かすためにあるのです。しかし、戦後から今日までの日本人の同調意識は「道義的に正しくある」ことがすべてであって、選挙においてさえ『人間』にではなくて『理念』に投票しようとして、おかしなことになっている、と私は観ています。
 そして、若い人が、「誰に投票していいかわからない。」あるいは「若者よりも老人に有利な政策になっている。」と考えてしまう背景には、『秘密投票』という選挙システムがよくわかっていないことがあると、私は観ています。例えば20代の私は、東京都知事に当選した青島さんよりも年配の候補者に一票を投じていましたし、私が投票した候補者が落選することも少なくありませんでした。
 「誰が誰に投票しても、その責任を問われない。」というそのシステムは、インターネットが無くてもできる『匿名投稿』と同じです。つまり、現行の選挙システムは、その『匿名性』において、決して若者に対して不利ではありません。実は、このシステムそのものは、老若男女に対して平等にできているのです。人間の思惑がそれを歪(ゆが)めていて、老人だけに有利になっていると勘(かん)ぐられています。昔を思い出してみればわかりますが、働く現役世代が老人問題で頭を悩ませていた、その時代から前進したのが、今の時代なのです。政治家たちや老人たちが必ずしも我田引水した結果ではないことを、若い人たちには理解してほしいと思います。それどころか、今の若者の生活を何とかしてほしいと願っている高齢者も少なくはないと、私は思っています。
 そして、「どんなに個人で努力して、投票したい人を探しても、また、どんなにそれを望んだところで、その候補者が当選するかどうかは、結局わからない。」ということです。そのことが、選挙の一番肝心な点です。つまり、有権者の投票結果は多数決として現れます。票をより多く集めた人が当選するわけです。その場合、同調圧力なんかじゃなくて、数の論理であり、国会内における多数決(『永田町の論理』と呼ばれることもあります。)と同じ原理なのです。
 だから、私の場合、複数の候補者の誰に投票しようかと迷った時は、あれこれ理想や願望や公約などを考えないことにしています。ここは、候補者の選択を間違えても、『秘密投票』の原則によって、そのことで個人的な罪には問われないと、まず理解します。誰に投票するのかが重要なのではなくて、「誰か一人に投票する」という、私自身の行動が重要なので、それのみに責任を持ちます。それのみが、大人の責任なのです。その投票後に、当選あるいは落選の結果が出ますが、有権者はそこまで責任を持つ必要はありません。もちろん、誰に投票したのかを誰かに自白してもかまいませんが、それを秘密にしていても何の罪にも問われません。すなわち、『秘密投票』によって、「誰の圧力にも屈せずに、自主的に選んだ誰かに投票できる。」ということが、『民主主義』にとっては一番大切なことなのだとわかると思います。