いじめについて考える

 先日、夜にEテレを観ていたら、『いじめ』について多くの人が語る番組に私は注目していました。そもそも『いじめ』とは何か、とか、『いじめ』は悪いことだからどうやったら無くせるか、とかの様々な意見がありました。また、番組の新しい試みとして、いじめられた側といじめをした側の、両方の立場の若者と、そうした経験をした子供を持つ親御さんや学校の先生を、スタジオの一つの場所に集めて、話し合いをさせていました。『いじめ』をした人は謝るべきだとか、謝る前に自己反省が必要だとか、誰かとの相談が必要だといった意見があったようです。感情的になったり、フラッシュバックがあって、泣き出す人も番組中には映っていました。
 こうした光景をテレビで目撃しているうちに、私の中にも、『いじめ』というものの正体が段々とわかってきたような気がします。『いじめ』というものは、あくまでも『被害者の意識』であって、『真相』ではないということなのです。よくマスコミの人たちが、学校側に対して「いじめがあったか、なかったか。」と正す場面を見かけます。しかし、事件があったということは、被害者がいじめられたという可能性があるので、「いじめがなかった。」と断定することはできないのが当たり前なのです。その当り前のことを、わざわざ学校の先生方(地方公務員)に問いただすのは、その学校組織の評判を下げることになります。従って、もしその件で裁判に訴えられたならば、名誉棄損や業務妨害の罪に問われるかもしれません。一般人は、決してマスコミの人たちの真似をしてはいけないと思います。
 ですから、私としては、『いじめ』はあくまでも被害者の抱く『意識』あるいは『主張』であって、「ある」とか「ない」とかと客観的に断定できるような『真相』ではない、という立場に立って、以下の話を進めていきたいと思います。私は、被害者・加害者の意識は語っても、真相は語れません。当然のことですが、『いじめ』られた側が何の反省もせずに、世の中に対して横柄になっていいという、いかなる理由もありません。
 私は、幼い頃に、大人の家族から叱られたり、階段から突き落とされたりした経験があります。また、外で遊んでいると近所の男の子からよく虐(いじ)められて、泣かされました。それで、意地悪をしない近所の女の子と友達になっていました。
 学校時代は、いじめられたというよりも、男の友達からいきなり暴力を振るわれたということが多かったようです。それとは逆に、私にその気が無くても、別の男の同級生に意地悪をしてしまった、ということも私にはありました。自己主張というと聞こえはいいですが、違う考えの相手を傷つけてしまうこともあるのです。
 よく『いじめ』を受けた被害者は、「加害者にはこっちの辛い思いなどわからないだろう。」とよくおっしゃいます。けれども、意地悪をして加害者になってしまった側は、「悪かったな。」と思っても、謝るべき相手に会えなくなってしまう、ということが多分にあるものです。また、たとえ、相手に謝ったとしても、その人の気持ちが180度変わってくれるかといえば、それを信じられないのが普通です。あるいは、謝って許して、新しい関係ができることを双方が期待するという場合も考えられます。しかし、加害者は、被害者にいつまでも根に持たれることを意識から消すことができなくなってしまうのです。加害者にとってのせめてもの償いは、過去の辛い経験を教訓にして、誰かに同じ過ちをしないことなのです。
 私は、どうしても『被害者の意識』というものが気にかかって仕方がありません。なぜならば、私が会社を辞めて脱サラをした原因は、私が会社内の誰かにいじめにあっていたからです。また、私が、いまだに女性と結婚できないのは、どんな相手の成人女性からも「いじめられていた」という『被害者意識』があったからです。「そんな考えやめなよ。」と誰に言われても、どうしても、そのような『被害者意識』から抜け出せません。
 だから、マスコミの人たちから「いじめがあったか。」と聞かれたら、「社会全体から、いじめがあった。」と答えるしかないのです。しかし、誰も(マスコミの人たちでさえも)そこに真実や真相があるとは考えないと思います。私が自殺をしたとしても、過労死していたとしても、誰も私のことを認めてはくれないと思いました。だから、私は、自殺もしなければ、過労死もしないで、生き長らえているわけです。私は、会社内で、何度も他人から「死ね。」と言われました。でも、その命令には、私は従いませんでした。雇ってくれないならば、雇ってくれなくていい、と私は腹をくくったのです。
 繰り返して言いますが、こうした話には、真相などありません。あるのは、被害者意識という、どうどう巡りの感情があるのみです。正直なことを言いますと、今回のEテレの番組を観ていると、人間関係の問題で悩んでいる若い人たちが多いということが感じられました。その問題を『いじめ』というキーワードで一括(ひとくく)りにしている感じがしました。そう考えてみると、学校のいじめの問題は、特別な問題ではない、ということがわかります。もっと一般的に考えてみて、差別や格差や民主主義や社会経済や組織の管理体制を日常生活の上でどう考えるかということに、つながっていくと思います。そうしたことに目を背けずに、老若男女を問わず私たち一人一人が学習していくことが、本当は求められているのかもしれません。