私のプロフィール 介護不要の人生を目指す

 小学生の頃の私は、体が弱くて、毎年冬の大晦日近くになると必ず扁桃腺が腫れて、高熱を出しました。母親に連れられて、行きつけの小児科医院に行き、熱をはかられて、お尻に痛い注射をされました。自宅の二階の部屋に一人で寝かされて、母親が持ってきた食事をそこで食べていました。その頃の私は、一人でずっと寝ていることをさびしいとは思いませんでした。家族が看病してくれることにも、ありがたみを感じたことがありません。それよりも、風邪で扁桃腺が腫れて高熱を出したことが悔しくてなりませんでした。毎年大晦日近くになると、夕方の時間にテレビでゴジラの映画とかガメラの映画とか、普段は放送していない番組が放送されていました。高熱で体の自由が利かないために、テレビが観れなくて、床に伏していなければならないことが情けなくて、私は一人でいつも泣いていました。
 私が自分自身の体調や健康のほうが、学校の成績よりも、会社の給料よりも気にしてしまうことになったのには、このような子供の頃の経験があったからだと思います。病気や怪我で体の自由が利かないことくらい、不幸なことはないと考えていました。
 現に私は、今から二年前に、田んぼに足を取られて、両足首捻挫という初めての経験をしました。何かにつかまらずには一歩も歩けませんでした。何かにつかまっても地についた側の足が痛く、足を持ち上げても鈍い痛みを感じました。トイレに行くにも、両手を突いてハイハイしてゆっくり便器に向かいました。車にも何とか壁で体を支えてやっとたどりついて、足を痛めながらも運転していました。きゅうりの畑で水をやるために複数のバルブを一つ一つ開けなければならない場合も、自衛隊員のように『ほふく前進』をして、かろうじて義務を果たしました。
 その時に私が感じたことは、私の家族とか誰かが近くにいなかったことがとてもラッキーに思えたことです。こんな姿は、家族であろうと他人であろうと誰にも見せたくありません。それに誰にも助けてもらいたくありませんし、誰にも心配されたくはありません。田んぼに足をとられて両足首を捻挫をして歩けなくなったのは、誰の責任でもなく、私自身の責任なのですから、誰にもこのことは知られたくありませんでした。
 このことは誰がどう思おうと、誰もどうにもできないことであり、たとえ私がその場で声をあげようと、それは声にはならないのだな、ということなのです。私は、私自身のことに関してこのことを知りましたが、自分一人だけが特別に経験したことだとはどうしても思えませんでした。誰でも歳をとってしまえば体の自由が利かなくなって、命が終わるまでは誰でも同じようなことを経験するのではないか、ということに私は気づいたのです。年老いて体の自由が利かなくなるまでは、誰もそのことに気がつかないし、わからないのだ、ということです。
 ところで、私の実家では、私の二十歳前後の時期に大変なことが起きました。私の祖父と祖母が老衰で二人とも歩けなくなって介護を必要になりました。私の父と母は、祖父母の介護で病院に付き添ったり、食事を運んだり、下の世話をしたりで忙しく、家中が家族介護を中心に動いていました。二十歳前後の私には、何も自由が認められませんでした。学校や会社と家との間の往復以外は、何事に対しても大人しくしていなければなりませんでした。私の家だけではないと思いますが、自宅で老人を介護する家族というのは本当に大変なのです。介護される側の老人も、恥ずかしい思いをして生きなければならないし、介護する側の家族にも精神的・肉体的負担がかかります。
 介護をする側が、命がけになっていることを自覚していないこともあります。私の父は、仕事とかけもちで祖父母の面倒をみていました。その長期間の無理がたたって、過労で自らの健康を害して、長生きできませんでした。あんなに真面目に働いてきたのに、年金ももらえず亡くなってしまいました。(農家研修で長野市の農家さんにそのことを話したら、信じてもらえませんでした。東京に住んでいるのに、東京でいい暮らしをしてきたくせに、そんなことはないだろう。お前は罰当たりだ、とさえ言われました。)
 私の祖父母は、介護されるようになった当初、家族の言うことをきいてくれず、わめいたり不機嫌になって大変でした。そのことを気にして、私の父と母は、(私を含む)子供たちを祖父母に近づけないようにして介護を続けました。今思うと、老人がなぜ介護されだすと、とりみだしてしまうのかわかるような気がします。そこには生きる個人の自由というものが無いからです。何かを食べるとか、トイレに行くとか、といった当たり前の日常生活を、大人が自分一人ですることができなくなることは、とてもつらいことです。その失望感は、先の無い人間にとっては耐え難いものです。
 結局、黒田家の祖父母の不機嫌は、私の母の一言でおさまりました。母は、「あなたがたを身近でお世話できるのは私らしかいないのだから、それにすべて従ってもらいます。」と祖父母に対して決心を伝えました。祖父母はどちらも、何か不満そうでしたが、それで少し大人しくなりました。それでも、老人の自宅介護が大変なことは変わりませんでした。
 それならば、他人が世話をしてくれる老人施設ならば、という話があるかもしれませんが、私はそのことも実は知っています。でも、その話をこのブログ上で書く意思はありません。どんな老人の末期の実態を知っても、私たちは何の力にもなれません。その無力感を思い知らされるだけなのです。
 家族に介護されても、他人に介護されても、老人が立たされる立場というのは、絶望的なものなのです。生きていながら、生きている自由が無いのです。親孝行などという気持ちでは、もはや癒すことさえ不可能な状態なのです。幸い私には現在子孫がいませんから、そんな安直なことが言えるのだと思われるかもしれませんが、葬式に立ち会うことが多くなるたびにそう思えて仕方が無いのです。どのように生きることが、他人に迷惑がかからず、私自身にも納得がいくのかということを考えざるおえないのです。
 私は、長生きがしたいからという理由で、長野県で生活しようと思い立ったわけでは本当はありません。もっと切実な願いがありました。「ピンピンコロリ」というものをテレビで知りました。「年老いて、病気や怪我で寝たきりにならず、いくときはコロリといこう。」という標語です。そのためにはどんな環境を用意したらいいかを考えて、その結果行きついた場所が、現在私がいる場所なのです。私は、行きつく場所が決まったので、毎日仕事をすることができるようになり、少しでも頑張って生活できるようになりました。若い頃に老人介護の現場を見ていただけに、私の人生に介護は必要ないと考えるだけで、かなり心が軽くなりました。