老後のための予行練習!?

 ここ一週間、私は家に引きこもっていました。その原因は精神的なものではなく、身体的な問題でした。一週間前に、時間に追われて無理な駆け足をしてしまい、左足の甲が腫(は)れ上がってしまいました。痛風や捻挫をした時のように、足が痛くて歩けなくなるのです。
 4、5年前、私は風の強い日に、ビニールハウスに大きなビニールシートを張るお手伝いをしていました。その最中に、突風に左手を引っ張られました。手を放すと、大きなビニールシートが飛んでしまうので、手を離せませんでした。その時の強引な自然の力によって、左手首を痛めてしまいました。捻挫をしたように、手首が回らず、赤くうっ血し腫れ上がってしまいました。その患部は、圧を加えた時だけ痛くなるという特徴を持っていました。そこで、捻挫と思って、お医者さんに診てもらいました。ところが、それは通常の捻挫ではなく、原因不明のため、MRIによる精密検査を受けたのですが、左手の内部に出血がみられた以外は、何もわかりませんでした。3週間ほどたって腫れが引いて、やっと自然治癒してきたのですが、その怪我の原因は十分には明らかになりませんでした。
 今回の左足の腫れが、あの時の左手の腫れとよく似ていたので、私は一つの仮説を立てることができました。うっ血して局部が腫れ上がったのは、体の内部の血管に傷がついて、内出血をしたに違いありません。外部から無理な力がかかって、手足を通っている(毛細血管よりも少し太い)血管の一部分が破損したらしいのです。おそらく静動脈硬化のように血管の柔軟性が失われつつあることが、その間接的な原因だったと推測されるのです。
 そう言えば、私は20代30代の若い頃に健康診断を受けた時に、高脂血症高尿酸血症の疑いがあることが血液検査でわかっていました。将来、動脈硬化の症状が出ると、その頃すでに警告されていました。しかし、私は真面目に仕事を続けすぎる性格であったために、当時そのことを気にもせずに働き続けていました。そのツケが、今頃になって現れてきたようなのです。それは、ある程度、私自身に対して納得のいく説明あるいは理屈に思えました。
 別に、私はそのことを悲観しているわけではありません。ある意味、それも運命みたいなものです。親も誰も教えてくれなかったとか、学校で教えてくれなかったとか、と嘆くつもりはありません。例えそうであったとしても、私自身の体のことですから、その最終的な責任は私自身になければなりません。
 私自身の体のことを、私が責任を負わずして、誰が負うというのでしょうか。このようなことまで、見ず知らずの他人を含む『社会』というものが責任を負えるというのでしょうか。それこそ、自分自身のことを他人事(ひとごと)のように扱って、他人に責任を擦(なす)りつけることであり、卑怯だと思います。もちろん、21世紀の今日に至っても私自身わからぬことは少なくありませんが、そこはこう考えて、あきらめるしかないと思います。どんなに成長しても、人間は不完全なものだと考えられるのです。
 かなり理屈っぽくなりましたが、現在できうる範囲内で私は生活していこうと思いました。もともと私は、家族や他人から看病されるのが苦手でした。誰かに看病されると、逆に気を使ってしまうためです。つまり、私は、病気や怪我をしている時は、「一人でいるほうが、他人に迷惑をかけずに、落ち着いていられる」と考えるタイプなのです。
 就活や婚活や終活と同じように、老活という言葉が最近知られるようになったようです。老人になると、まず、足が衰えて歩けなくなります。私の母は、祖母や祖父を介護していた頃にそれを実際に見ていたので、そのことを現在も気をつけているのだそうです。私などは、今回のように、足を痛めて、実際にそのような状況を体験できる、貴重な機会を得ていると思うようにしています。つまり、それが私の老活と言えましょう。年老いてからアタフタしないための、老後のための予行練習(?)と言えるかもしれません。