意外と身近な『仮想』の話

 一般に『仮想現実』というと、某デジタルIT企業が商品化している、CG(あるいは、3DCG)や5Gによるものを指します。例えば、ユーザーは、その新たな現実の土俵上でアバターとなって、時空間の制約なしに自由に行動を飛躍させることもできたりします。
 ところで、最近私は茂木健一郎さんの著作『脳と仮想』(新潮文庫)に目を通すことが多くなりました。茂木健一郎さんといえば、かつてテレビの某バラエティー番組で、『アハ!体験』を伴うクイズの出題で有名になった、脳科学者のおじさんです。その『脳と仮想』という著作を、私は手に取りやすい文庫本で買いました。その『第二章 仮想の切実さ』の、最後の段落には次のように記述されています。長い文章ですが、そのまま引用させていただきます。

 「今、ここ」の因果性を重視して、経験主義科学は発達してきた。科学の知見に支えられて、現代におけるデジタル・インフォメーション・テクノロジーが発展して来た。様々な情報をデジタルのデータとして大量に手に入れられる現在、何かを見ることの困難はむしろ増大している。本来現実に対応物がないことが本質である仮想でさえ、わかりやすい音や絵にして見せることを人々が要求し始める。現代人は、ひょっとしたら仮想とはCGによって表現されたハリウッド映画のことだと想っているのではないか。CGによって表されたものは、仮想ではない。それは、「今、ここ」の現実である。映画の中で橇(そり)に乗り、にっこりと微笑むサンタクロースは、もはや仮想ではない。仮想とは、本来的に目に見えないものであるということを忘れてしまっているように思われる。

 この著作のあとがきが2004年盛夏になっていることを考えますと、さらに20年近く世の中は進んでいることになります。それでも、世間一般に通用している『仮想現実』の意味合いと、茂木健一郎さんが気づかせてくださる『仮想』の本当の意味合いとには、違いがあると思います。端的に言って、仮想によるものは、CGのようにハッキリ見えるものではなく、おぼろげです。
 その著作の序章では、サンタクロースは存在するか、という問題が述べられています。「サンタさんていると思う?」という問いを発した5歳くらいの少女の話です。茂木健一郎さんは、この「サンタクロースは存在するか?」という問いを、これほど重要な問いはこの世界には存在しないと考えて、脳科学者としての立場から以下のような説明を付け加えます。(以下も、原文からの引用。)

(…略…)サンタクロースが決して目の前に姿を現さないことなど、彼女だってきっと知っている。サンタクロースは、決して「今、ここ」には現れない。目の前に置かれた赤いリンゴのように(…略…)は、サンタクロースは決して体験され得ない。しかし、それにも拘(かか)わらず、いやだからこそ、サンタクロースは五歳の女の子にとって、おそらく私たち全てにとって、切実な存在なのだ。
 私たちの仮想の中のサンタクロースは、ぼんやりとした姿をしている。現実の世界で出会うサンタクロースの似姿のイメージに影響されながらも、私たちの意識は、その本質をとらえきれない、あやふやな存在として、サンタクロースという存在を把握し、予感している。うすぼんやりとしか見えないからこそ、サンタクロースは五歳の女の子にとって、そしておそらくは大人たちにとっても、切実な存在なのだ。

 あえて、重要な言葉を定義するのを後回しにしました。それほど私たちは、『仮想現実』という言葉に振り回されながら、日常を生活しています。たとえば、『仮想』などと言われても、現実の世界を3DCGの世界へ置き換えた、その架空空間を意識することだと思われがちですが、本当は違います。、私の持っている古い国語辞典によると、「仮にそうだと思うこと。想像。」と書かれています。あるいは、現在のネットで調べてみると、「実際にはない事物を、仮にあるものとして考えること。」とあります。英語に訳すと『仮想』は”Imagination(イマジネーション)”です。すなわち、そのような『仮想』とは、意志や意識や心や感情や魂などと同じように、脳の働きによって生み出されます。だから、「見たことのないサンタクロースを頭の中で、仮に在るものとして、ただし、おぼろげな存在として意識してみる」ことが、仮想をするということなのだと思います。たとえ、本物のサンタクロースが現実世界に存在しないと知っていても、その存在を否定するどころか、切実な存在として感じてしまうということなのです。なお、『切実』という言葉の意味も調べてみました。これも、私の古い国語辞典によると「身に強くひびいてくるようす。」とか「心に強く感じているようす。」と書かれています。ネットでも、上の2つの意味に加えて、「よく当てはまるさま。適切なさま。」とも書かれていました。おおかた、それらの意味と同じように、「身近に深くかかわっているさま。」という意味だと思います。
 だから、『仮想現実』の本当の意味は、「仮にそうだと思って造った現実」だと、私は思いました。本当のことを言えば、それは、その造られた現実を利用するユーザーの側に立った言葉ではありません。その現実を「仮にそうだと思って」造った側の発した言葉なのです。そのように考えられれば、一般的な『仮想現実』を指すものの意味が、あながち間違いではないこともわかります。仮想現実を造ってもらった側からすれば、その現実を受け入れるしかありませんが、仮想現実を造った側からすれば、そうすることに切実さがあったわけです。その違いがわかれば、仮想現実に対する理解がさらに深まることでしょう。
 それはそれとして、私たち人間の誰にとっても切実なことがある、ということを忘れてはいけません。それは、私たちのおのおのが『仮想』をする、ということです。そして、それが脳の働きの一つであるということは、私たちが、3DCGや5GなどのデジタルIT技術に関わるよりも、ずっと小さなコストで身近に仮想現実に関わることができるということを示しています。
 たとえば、写真や映像などのどこがどう変わっているのかを、ああでもないこうでもないとそれらを見ながら考えてみるのです。「仮にそうだとして」などと、あれこれ考えてみることが、脳を働かすことになります。見当違いをするなどの失敗を怖れずに、いろいろ考えてみることが脳を働かすには良いのだそうです。つまり、それが総じて『アハ!体験』になるということを、知っていただけると良いと思います。
 今回の考察は、ここまでにいたしましょう。次回のブログ記事では、テレビドラマと仮想と、そして、仮想現実について述べてみたいと思います。