リアル『蟻とキリギリス』

 イソップ寓話『蟻とキリギリス』は、働き者の蟻たちが、怠け者のキリギリスが冬場になって食べ物がなくなって困窮しているのを知って、蓄えていた食べ物を分けてあげる、という心温まる童話として一般に知られています。私がネットで調べたところ、実は、この話には他にも2つの結末があるそうです。また、この話に込められた教訓についても、「困った人を助ける優しい人になろう」とか「後先を考えずに過ごすと後で困るよ」とか「幸せの尺度は人によって違うもの」などとあるそうです。それらの教訓を頭に置いて、以下をお読みください。
 私は、東京生まれの東京育ちで、40代になるまで東京の自宅で生活していました。すなわち、都会で生まれて育って働いて生活していました。その経験に基づけば、『脱炭素社会』とか『温室効果ガスの二酸化炭素が一番悪いから、その削減が大切』といったことを至極正しいことだと信じていたと思います。(今は、あの頃よりも視野が広がって、それだけではないことがわかっていますが…。)
 この『蟻とキリギリス』に関しても、食べ物に困窮したキリギリスが、蟻の居場所を訪ねていくということを、実際にあることだと信じていました。それを信じて疑わなかったが、都会で生まれ育って働いて40代になるまで生活していた私の考えでした。
 現在私は20年ほど東京を離れて、地方で生活しています。農地の地面に蟻を見かければ、『蟻とキリギリス』の童話と同じように、働き者の蟻たちが集団行動でせっせと働いています。また、今から6年ほど前から、その同じ草むらに一匹のキリギリスを一年に1、2回見かけるようになりました。それも、『蟻とキリギリス』の童話と同じように、一匹で何の目的もなしに行動しているかのように見えました。すなわち、『蟻とキリギリス』の作者は、蟻やキリギリスが自然の中でどのように生きているかをちゃんと観察していて、この童話を書いているということなのです。私は、作者の自然に対する観察眼の確かなことを、そこで確認しました。
 ところが、この6年余りに、私は新たな事実を知りました。私が、一年に1、2回ほど見かけるようになったキリギリスなのですが、いつも同じ大きさ、同じ形、同じ色でした。1年ごとに、世代交代があるのかもしれませんが、いつも同じキリギリスが1匹だけ見つかるのでした。さらに、昨年は、3度もキリギリスを見かけました。3回目に見かけたのは11月でした。秋も深まって、それまでに何度か霜も降りていましたが、その日は小春日和でした。今、その草むらにそれがいたとしても、やがて凍え死んじゃうんじゃないかなと、私は思っていました。しかし、それは相変わらず、一匹で飛び跳ねていました。とても蟻の世話になって、食べ物を分けてもらっているふうには見えませんでした。(一方、蟻はと言うと、霜が降りてきた頃には既に地上から全く姿を消していました。)
 そこで、やっと私はわかったのです。冬になって食べ物に困窮してキリギリスが蟻のところへ訪ねていく以降の話の件(くだり)は、人間である作者による完全な想像であり、フィクションの創作であるのだ、ということです。そこには、自然観察による科学性は無かったのです。それは、あくまでも、人間に対する社会科学的な教訓にさし代わって、この童話のそのような続きが書かれたと理解できましょう。
 すなわち、蟻とキリギリスの現状は、『蟻とキリギリス』のお話と全てが同じとはかぎりません。現実のキリギリスという昆虫が、食べ物がなくなったからといって、蟻のもとへ物乞い行くこともなければ、現実の蟻という昆虫が、食べ物をキリギリスに分け与えるということもありません。現実の自然界では、蟻もキリギリスもそれぞれが独立して生きているわけです。それらを関連づけて、教訓を伴うフィクションに作り上げたのは、人間である作者の脳の仕業に過ぎません。
 つまり、これが『蟻とキリギリス』という童話に基づいて、現在の私が獲得した新たな教訓でした。