当たり屋との遭遇

 今から30年近く前の秋葉原での出来事ですが、公の場で誰かに脅(おど)されたら、すなわち、恐怖を与えられたらどうするのか、ということの参考になるかもしれないので、以下に書いてみたいと思いました。ひと言その前に言っておきますが、スピルバーグ監督作品の『未知との遭遇』を想起するようなブログ記事のタイトルにしました。あの出来事は、ある意味で私にとっての未知との遭遇でした。ちなみに、最近私は、走行している電車内で恐怖で逃げ走っている人々の(映画などではない)実映像や、電車内の座席に一人で煙草を片手にふんぞり返っている加害者の映像などをテレビで観たら、チャンネルを替えるか電源OFFをすることにしています。私自身がそのようなことに興味を持って、模倣犯になることを防止するためです。
 心を惑わされたり、誘惑されやすいのは、都会人の常とはいえ、都会に住む人は心に留めておかなければいけません。かつて私も都会に住んでいて、そういった経験があるので、現代に生きる若者たちも、加害者になろうと被害者になろうと、そういった世間のことに慣れてほしいと、私は願っております。

 「おい、ちょっと待て。止まれ。」と、車道に出てきた一人の男が、一人で乗車運転中の私の、車の助手席側のガラス窓をいきなりコンコンと叩いてそう言ってきました。自動車免許を取得して間もない私は、一体どうしたのだろうと思って、助手席側のドアを開けてしまいました。すると、その男が乗り込んできて、助手席に座ると「ちょっと車出せよ。」と言ってきました。私がその通りにして発車すると、その男は左手首にはめた腕時計を見せてこう言うのです。「今さっき、俺にぶつかっただろう。時計にひびがこんなに入って壊れちまったぞ。手にもひびが入ったかもしれないし、どうしてくれるんだ。」と、その男は言いがかりをつけてきました。
 確かに、その腕時計の文字盤のガラスには、縦にひびがハッキリと入っていましたが、どう見てもハンマーか何かで叩いてつけたようなひびでした。つまり、その男は、「走っている自動車にわざと当たって、あとでむちゃな見舞金などをまきあげる人」すなわち『当たり屋』だったのです。しかし、目と耳と手足が車の運転に集中していた私は、そこから逃げることもできず、見知らぬ男から何をされるのかもわからなかったので、何も抵抗できませんでした。そこで、私はびっくりした顔をして「すいません。左折したのに、車の左側を見ていませんでした。」と、私自身の非を認めて、正直なところを伝えました。
 ところが、それを聞いたその男は、なぜか私以上にびっくりしたらしく「おい、全然見ていなかったのか。」と問いただしてきました。そういえば、その男と私の車が接触した際の音が全くありませんでした。当て逃げをしたと思い込まされた私から、その口止め料をがっぽり分捕(ぶんど)ることが、その男の思惑だったらしいのです。ところが、『当たり屋』であることが私にばれてしまったことに、そこでその男は気がつきました。当初の当てが外れてしまったことに、その男は顔面蒼白となっていました。
 しかも、その時の私は、左折時の左側不注意が交通違反であり、その男を本当に負傷させてしまったという考えを消し去ることができませんでした。そこで、その男に「手にひびが入っているといけないから、病院に行って診てもらいましょう。」と言って、近くにあるはずの病院へ向かおうとしました。すると、その男は、「それは大丈夫だから、5千円くれれば今回のことは黙っていてやる。ここで車を止めて、降ろしてくれ。」と言って、大人しく自らドアを開けて、退散してくれました。
 5千円はいわゆる高い授業料でしたが、その時の左折時左方向不注意は明らかな交通違反でしたし、それ以降の私は車の運転中に特にこのことを注意するようになりました。そのように考えてみると、あの時の交通違反に気づかせてくれた『当たり屋』さんに、感謝する気持ちが生まれて、5千円あげてよかったと思いました。
 また、5千円を渋って車から降ろそうとした場合、その直前に運転中の車内で暴れられたら困るという考えもありました。人の心がどんな状態なのかは、いついかなる時もわからないものです。その『乱心』を5千円というお金を渡すことで抑えることができるのならば、これほど有効な対策はないと思うのです。そのようなことを、こんなご時世の現代だからこそ、多くの人々に思い起こして欲しいと、私は思うのです。(確かに、それは古い考え方なのかもしれませんが…。私は、そのような『当たり屋』を肯定しているわけではありません。そこのところは、お間違えなさりませんよう、皆様にお願いいたします。)