仮想現実なショートドラマ

 まず、前回のブログ記事の要点の一つをおさらいします。仮想現実とは何か?と考える前に、仮想とは何か?と考えてみましょう。私の持っている古い国語辞典によると、仮想とは「仮にそうだと思うこと。想像。」と書かれています。あるいは、現在のネットで調べてみると、「実際にはない事物を、仮にあるものとして考えること。」とあります。ちなみに、英語に訳すと『仮想』は”Imagination(イマジネーション)”です。したがって、私たち人間が仮想する、つまり、「仮にそうだと思う」ことによって、形作られる現実が、仮想現実なのだということです。
 そう言えば、最近、事件もののテレビドラマを観ていたところ、事件解決の糸口となる映像のいくつかが伏線となっていました。日曜夜の日テレ系で、城塚翡翠(じょうずかひすい)シリーズのテレビドラマ化したものを、去年の秋頃から毎週私は観ていました。つまり、それは、誰がどういう理由で犯人なのかということの推理を、主人公の探偵だけでなく、視聴者にも推理できるようにストーリーが展開していく推理ドラマでした。そういう趣旨のドラマではありましたが、私のほうはそういうことにはおかまいなく、別のことに気を取られていました。清原果耶さん扮する城塚翡翠の衣装が劇中で変わるたびに、「あの娘(こ)かわいいなあ、着ている服が。」とか「あの娘(こ)きれいだな、着ている服が。」などと不真面目なことばっかし考えて、そのドラマを観ていました。
 要は、この探偵推理ドラマを、事件とは直接関係のない何かに気を取られて、真面目に観ていなかった、というだけのことでした。それを言いたいだけの説明になってしまいましたが、劇中に隠された真実を視聴者に考えさせるというパターンが、近ごろ流行(はや)っているようです。実は、先日の1月4日と5日の間の夜中に、テレビ朝日系列で『芸能人が考えた意味が分かるとOOドラマ ”ドラマ考察バラエティ”』という番組を私は観ました。それを視聴していて、いくつか気づいたことがあったので、以下に述べてみたいと思います。

 その手の得意な芸能人が、ドラマ原案者となって、スタッフがショートドラマを制作します。そのドラマの内容の本当の意味を見抜くために、芸人や俳優さんが、そのドラマを途中まで観て、ストーリーの展開や結末を独自に考察して、それを各人が述べていきます。(実は、彼らも、映画やドラマや舞台等の制作に経験のある芸能人で、ガチな考察が自由に飛び交っていました。)ドラマの映像の中には、その考察の助けとなる数々の伏線が散りばめられていて、視聴者もそれを考察できるようになっていました。
 最初のショートドラマは、主人公のOL女性がストーカーの恐怖におびえていて、不可解な出来事が連続して起こります。果たして、そのドラマに隠された真実とは何か。そのことに近づくために、案の定、劇団ひとりさんを考察委員長とする面々からは、いろんな考察が飛び交いました。ドラマのタイトルや、伏線となる映像等に注目していきます。それらから導き出された考察は本当に様々でした。突飛(とっぴ)な考察もあれば、ドラマに隠された意図にかすっていた鋭い考察もありました。その辺が、バラエティーとして一番面白かったと私は思いました。
 もちろん、それは、仮想という観点からすれば、考察を行う面々が「仮にそうだと思う」ことによって、様々な考察がされているわけです。その考察が当たっていても外れていても、ドラマのその先のストーリーの展開と結末、あるいは、劇中に隠された真実(ドラマの本当の意味)を知りたくなります。仮想した事柄と共に、それを切実に思うわけです。さらにまた、そのドラマの中においても、主人公の女性が、ストーカーに狙われていると「仮にそうだと思う」ことにより、ストーカーへの恐怖が身に迫って高まります。ドラマの結末で、これまで隠されていた真実を知るまでは、その恐怖が続きます。実は、このショートドラマのホラー・サスペンス的な感じは、そんな彼女の仮想による恐怖心を映像化かつドラマ化することにより生じています。つまり、そのような仮想を映像化したドラマが、ホラーな仮想現実を作り出しているというわけです。言い換えると、ストーカーへの恐怖を主人公が仮想する、その切実さがこのドラマ映像で表現されていました。
 それに対して、次のショートドラマは、若い男女の恋愛ドラマのような映像でした。けれども、ラストシーンに近づいて、真実が明らかになると、全くそうでないことがわかりました。それもそのはず、二人の若い男女にしては、ぎこちない言動だったり、手紙文の映像などがその伏線になっていました。「もしかして、マトリックス・パターンありますか。実はみんな仮想現実の中で生きている。」という劇団ひとりさんの言葉を、後で考えてみると、このドラマに隠された真実を鋭くかすっていたことがわかります。
 これも、仮想という観点からすれば、そのドラマの中で、主人公が相手に恋をしていると「仮にそうだと思う」ことによって、若々しい初恋の頃のような恋愛感情を抱くことになります。それに対して、ドラマの結末では、少し残酷な現実が映像化されて真実が明らかになります。これもまた、劇中の主人公が、相手との恋愛を仮想する、その切実さがこのドラマ映像で表現されていました。
 ただし、いずれのショートドラマについても、視聴者の側からは、こんな批評や批判が出るかもしれません。いくらドラマが作り物(虚構、フィクション)だとしても、観る側を欺(あざむ)いたり、だましたりするのは、ちょっと違うのではないのかと、そのように言って怒る視聴者がいらっしゃるかもしれません。そう言えば、今回のブログ記事の初めのほうで、城塚翡翠シリーズをテレビドラマ化した番組のことを書きましたが、そのサブタイトルに「あなたはだまされている」などと書かれていた回があったことを思い出します。だから、そんなことで怒る視聴者がいらっしゃるのはごもっともです。がしかし、ドラマを制作する側は、必ずしも憎悪や悪意があって視聴者をだましているわけではないと、私ならば思います。
 劇中の主人公たちが「仮にそうだと思う」すなわち仮想している、その内面を視聴者に伝えるために、あえてそれを可視化して、ドラマの映像として見せているのです。つまり、それは、視聴者をだます単なるウソなんかではありません。ホラー・サスペンスであっても、ラブストーリーであっても、どちらも劇中の主人公たちが仮想した、すなわち「仮にそうだと思った」ものを、ドラマの映像表現で仮想現実化しているのです。
 そう言えば、2番目のショートドラマでは、『星の王子さま』の本が、ドラマの真実を知るための伏線の一つとして登場します。そこには多分「大切なものは、目に見えない。」などと書かれていたはずです。すなわち、見た目ではわからない本当の姿が隠されていることを暗示したものと解釈しました。おそらく、私のこの伏線の解釈は、ドラマ原案者の意図したものとは違っていることでしょう。けれども、主人公が恋や若さを仮想する切実さが、ドラマ映像の仮想現実として表現されていたと考えてみると、それほど奇異な感じを視聴者は受けないのではないかと、私は思いました。
 このショートドラマが映画『マトリックス』ほどのスケールではないにしても、『仮想現実』という言葉で、ドラマに隠された真実に鋭くかすった劇団ひとりさんの考察は流石(さすが)だったと思います。当たらずとも、遠からずです。さらに私が補足するならば、人間誰もが「仮にそうだと思う」ことすなわち仮想をすること、そして、その仮想の切実さが映像ドラマの中に表現されて仮想現実化することを知っておくことは、意外と役に立ちます。それらのドラマの意味を知って、その表現手法をよりよく理解するために有効な手段の一つだと言えましょう。

 繰り返しになりますが、ドラマに散りばめられた伏線となる映像に注目して、ストーリーの展開や結末を予測しつつ、ドラマに隠された意味や真実を「ああだ。」「こうだ。」と探求するのは、本当に面白いことだと思いました。ただし、ドラマ映像の表現手法を当たり前に受けとめるには、少し抵抗があると思われる場合があります。そのため、仮想の切実さや仮想現実が、どのようにドラマの映像と関わっているのかを説明させていただきました。この手のドラマ映像が、決して、不可解な芸術でないことを理解していただけたら良いと、私は思っております。