『夜汽車』などの私的なイメージ

 ここのところ、恋の季節ではなくて本業の季節で忙しくて、このブログを書くのがおろそかになっていました。本当に今時分が忙しくないと、この一年間を棒に振ってしまう。それくらい大切な時期に、毎年のことながら突入していました。私の関心はもっぱら、無理な作業をして体を壊したり、怪我を負いはしないかということに向くことが多くなりました。
 そんな忙しい中でも、前回書いたブログの記事のことが少し気になっていました。古い昭和の流行歌のことを述べながらも、ある程度それはイメージで伝わっただろうかと、いや、やっぱりそれは少し無理だったかもしれない、などと考えるようになりました。
 当時でも、人によって歌詞内容の受け取り方に多少の違いがあったとは思いますが、例えば『花嫁』という曲について、「恋愛の成就が精神的な幸福と豊かさを表わしている。」という、無茶苦茶なことを主張するつもりは、私にはありませんでした。そのようにしか今の若い人たちに理解されないならば、ちょっと残念です。そこで、当時の言葉イメージの『におい』をわずかでも感じていただきたく、以下に『夜汽車』と『海辺の町』と『野菊』等々について述べてみることにしました。
 まず、『夜汽車』についてですが、これは現代の普通の列車ではありません。昭和の時代では、東海道新幹線の超特急『ひかり号』などが最速最先端でした。けれども、それが当時の日本の鉄道の典型でなかったことは誰もが知っていることだと思います。例えば、昭和30年代前後の日本の鉄道は、速さの順番で急行列車・普通列車・鈍行(どんこう)列車が走っていたと、私は母から聞いたことがありました。その中で注目したいのが、『鈍行列車』です。私の母が、18才の若い頃に、父親の反対を押し切って東京へ出てきた時に乗ったのが、まさにその列車でした。当時は、寝台車などは一般的ではなく、このような比較的速度の遅い列車が夜どうしかけて長距離を走っていたのだそうです。『夜汽車』という言葉のとおり、当時は、その夜行鈍行列車を蒸気機関車が牽引しておりました。その夜汽車の車内は、アニメ『銀河鉄道999』の車内をそっくりそのままイメージしていただくとよいと思います。
 そんなふうな話は、ちょっと驚きかもしれません。けれども、まだまだあります。『海辺の町』についてですが、必ずしも、それは『漁港がある町』とは限りません。また、私の母の若い頃のことを引き合いに出しますが、その東京に出てきた理由の一つに、新鮮な魚を食べたいというのがあったそうです。当時はまだ冷凍輸送技術が発達しておらず、長野県の実家では、鰊(にしん)や塩鮭などの干物しか食べられなかったそうです。一方、東京では、言わずと知れた築地市場があって、日本各地から鮮魚が集まってきました。つまり、新鮮な魚を食べられるための選択肢としては、漁港のある町へ行くということよりも、東京や大阪などの都会へ行くほうが、ある意味で合理的であったわけです。以上のことから、私は持論を展開してみました。東京などの都会の下町界隈や湾岸あたりを『海辺の町』と詩的に表現したのかもしれない。その可能性が捨てきれないと考えました。
 そして、『野菊』については、最近私の本業の作業中に、こんなことがありました。きゅうりの苗を支えるための棒状のものが、沢山必要になりました。ところが、枯枝がこの時期一本も地面に落ちていません。そうして困っていたところ、畑のわきのあちらこちらに、『野菊』と一般的に呼ばれている雑草が生えていることに、私は気がつきました。そこで、その一本の根元近くをハサミで切って、葉っぱを全てむしり取り、成長点も切り取ってみました。すると、一本の頑丈な棒ができて、きゅうりのつるを上に誘導するための支柱に使えることがわかりました。雑草なので、材料費ゼロです。害虫が付いてくることもなく、そのコスト・パフォ―マンスがよいことがわかりました。それにしても、『野菊』という雑草の主枝は丈夫です。その頑丈さや健気さを束ねること、つまり、『野菊の花束』という歌詞フレ―ズにそのような頑健な心のイメージを感じ取れることができたならば、それはそれでラッキ―だったかもしれません。そんなふうに、私は想像してみました。だから、「帰れない何があっても心に誓うの」という歌詞フレ―ズが、その『野菊』のイメージと連動していることは言うまでもありません。
 今回の記事の最後に、またまた私の母の若い頃のことを引き合いに出してみようと思います。前にも書いたように、私の母は、地元の高校卒業を機に、父親の反対を押し切って、東京に行って暮すことを決めました。なぜならば、長野県松代の生家に残っていると、父親の親戚や知り合いの紹介で結婚をすすめられてしまうからでした。そうやって無理やり結婚させられるよりも、あこがれの東京に行って暮らしてみたいという気持ちが強くなって、ある晩一人で地元の松代駅から蒸気機関車に引かれた鈍行列車(いわゆる夜汽車)に乗って、一晩かけて上野駅に到着したそうです。
 「東京は、部屋のボタンを押すと、壁から自動的にベッドが飛び出してくるスゴイ所らしい。」などというウソを、地元の松代高校の某教師から授業で教わったいたそうです。実際に東京に来てみて、それがウソだとわかって失望しましたが、本当にスゴイと思ったこともあったそうです。その当時の長野の実家では、まだ、薪(まき)を燃料に使って、ご飯を炊いたり、煮物をしていました。しかし一方、東京では、すでに、都市ガスというものが普及していたそうです。
 その都市ガスを生成する東京ガスの工場が、現在の豊洲市場の敷地あたりにかつてはあって、原料の石炭が海から船で運ばれていました。そこから鉄道の引込み線を通じて石炭ガラが運び出されて、かつては小中学校のスト―ブを暖める燃料などに使われていました。そんなエコな話をたどっていくと、当時の東京の町は、ただのあこがれだけに終わってしまうような場所ではなかったと、私には想像されました。
 当時の流行歌の歌詞の言葉やフレ―ズの背後には、以上のようなもろもろの現実(あるいは、ここで紹介しきれないほどの、もっといろいろな現実)があったようです。現代に生きる人たちが、その一つ一つを厳密に知る必要はありませんが、逆に知っておいても、それほど害はないと思いましたので、これを機会に少しばかり書いてみました。