『ミスター・ロンリー』から想起されること

 世間では、このコロナ禍での孤立や孤独が、社会的な問題として取り上げられるようになりました。実は、そのこととは別に、私は、以前からこの曲に注目していました。一つは、かつて夜中のFMラジオで聴いていた、『ジェットストリーム』という番組のオープニングで流れていた音楽がこの曲でした。そのせいで、私にはこの曲が、ジェット旅客機の夜間飛行のイメージと重なって記憶されました。
 すると、もう一つ、こんなエピソードを私は紹介したくなります。当時、東京都秋葉原万世橋付近に『交通博物館』がありました。その移転のために閉館間近となった日に、私はその博物館へ行ってみました。これまで何度か訪れていながらも、下の階の鉄道関連の展示物の、押しボタンに触ることばかりに夢中になっていました。そのため、上の階の飛行機・航空機の展示を観ないで、しばしば帰っていました。そこで、閉館間近となったその日は、下の階の展示は適当にスルーして、上の階の展示を観に行きました。人影は少なかったのですが、自動車やバイク、飛行機や航空機などの乗り物の展示を、ゆっくり落ち着いて観て行くことができました。
 そうした中でも、航空機に関する物は、その客室内がそっくりに展示されていました。実際に、展示物の客席には座れました。その壁には、航空機のガラス窓があって、そこを覗いてみると、星々の瞬く夜景が見られました。もちろん、それも、航空機の客席の窓を似せた展示物であって、そこを覗いて見える夜景も、狭い暗室にいくつかの小さく光る豆電球を散りばめた『偽物』の展示物でした。すなわち、そのガラス窓の中に見える夜景は、誰が見ても明らかに『子供だまし』の展示物でした。
 ところが、母子がそこにやって来て、その少年が展示物の座席から身を乗り出して、そのガラス窓をいつまでも覗き込んでいました。母親は、しばらくして「直人、先に行くよ。」と言うなり、『夜景』に見入って窓にかじりついている少年の腕を引っ張り続けました。すると、母親に抵抗していた少年は、窓から引き離されて、大声で泣き始めました。その母子は、いつの間にか私の視界から消えてしまいましたが、私は少年を夢中にしたその『夜景』の展示物に興味がわいて、そのガラス窓の向こうに目を凝らしてみました。しかし、やっぱりその『夜景』の展示物は、暗がりの中に散らばる豆電球にすぎない、ただの『子供だまし』でした。
 しかし、その少年が、その作り物の『客席のガラス窓』から覗いた『夜景』は、『ジェットストリーム』のオープニングで流れる『ミスター・ロンリー』(Mr.Lonely)の曲のような、何となく寂しく、ひっそりとした『夜のしじま』に見えたのかもしれません。少年は、その一人ぼっちの世界にのめり込んで、ひたっているところを、いきなり母親に邪魔されて、その不条理に抗議して、大声をあげて泣き出したのです。
 私がこのようなエピソードを話に持ち出したことには、それなりの意味があります。確かに、このコロナ禍での孤立や孤独により、困窮している人が多いのは事実です。しかしながら、現代は、多様化を社会が容認していく方向にあります。ですから、孤立や孤独によって、かえって一人でいることに癒されている人も少なくないと思うのです。そうした人の心に土足で踏み込むことは、決して良い結果を生まないと思います。だが、そうなると、どうやって困窮した人の心に踏み込んで、救いの手を差し伸べたらいいのか、ということになります。それは難しくて、悩ましい問題です。そう簡単に答えが出る問題ではないのかもしれません。
 ただし、今回のブログ記事においては、その問題はそれ以上は掘り下げません。『ミスター・ロンリー』(Mr.Lonely)という曲は、そのような困窮の思いが、(例えて言えば『夜のしじま』にたたずむような)ひとりぼっちの思いで表現されていて、一種の『美しさ』すら感じられます。厳しい現状を目の当たりしても、過度に落ち込まずに、その現状の中で癒されることも、決して悪いことではないと思います。そういった考えも含めて、改めてこの曲を聴いてみるのもよいのではないかと、私は思います。そういうわけで、その英文の歌詞を意訳して、さらに日本語カバーとして作ってみました。それを以下に示して、今回のブログ記事は終わりにいたしましょう。

 

 『ひとりぼっち』


ぼっち ひとりぼっち
誰も居てくれないよ
淋しいな ひとりぼっち
電話くれないかな

(*)
戦いに 来たけれども
望んで 来たわけじゃない
ゆえに ぼっち ひとりぼっち
家に帰りたい


欲しい 手紙 欲しい
手紙くれないかな
忘れられ 見捨てられ
どういうわけで ひどい目に?

(* くりかえし)