生身の芸術を学んでくる

 今回の記事のタイトルは、何か生々しいことに関係があると取られるかもしれません。イメージとしては、そんな感じです。事実だけをクールに言えば、大したことない、と言われるかもしれません。私にしては珍しく、自ら進んで(つまり、自発的に)美術館へ行って来ました。
 十数年前まで私は、東京の自宅に住んでいました。その頃までは、東京にある科学系博物館や歴史系博物館によく行っていました。また、動物園や水族館にも行きました。絵や写真や書道を観るために、美術館やギャラリーへ出かけて行ったこともありました。いずれの場合も、異性とのデート目的ではなく、もっと真面目な目的で、それらの展示を見に行っていました。
 しかし、長野県へ転居してからは、近くにそうした博物館や美術館が少ないことを『いいわけ』にして、自ら見に出かけていくことは全くありませんでした。今回たまたま、上田市立美術館が、アリオ上田や上田駅の近くだと知りました。軽トラでアリオ上田に行ったついでに、その道むかいにあるサントミューゼ(UEDA SANTOMYUZE)と呼ばれている上田市交流文化芸術センターに寄ってみました。その構内の一角に、上田市立美術館がありました。
 先日、たまたまテレビの中継を見て、そこで小松美羽展を開催している、ということを知りました。小松美羽さんというのは、あの『美しすぎる版画家』で有名な、上田市のすぐ北にある坂城町出身の芸術家です。長野県出身の、最近話題になっている有名な画家と言えば、松本市出身の草間彌生(くさまやよい)さんでしょうが、小松さんのような若手の芸術家もまた、将来有望視されています。
 テレビの特集番組などで何度か取り上げられていて、この芸術家の特徴については、私もよく知っていました。大まかに申し上げれば、妖怪のような、気持ちの悪い事物を描くので有名です。なぜそのような絵画や版画を作品として創作するのか、ということは作品を観る側の大きな関心事です。それは、観る側のほとんどの人が「こうしたものは、私は描けない。」と思うからです。一方、作る側の芸術家からすると、「こうしたものしか、私は描けない。」とのことです。作品を作る側と観る側の基本的な関係は、このようにして成立しているわけです。少なくとも、私の場合は、妖怪や化け物に興味があって、作品を見に行ったのではありませんでした。テレビの特集番組で見たことのある、最近話題になっている芸術家の作品を、直接拝見できる機会ができたので、行ってみようと思ったのです。
 二十歳以降の私は、博物館や美術館へ展示物を見に行くと、どうしても博物館学芸員の視点で見てしまいます。展示パネルの位置や高さが妥当かとか、説明文の文字の大きさが読みやすく適切かどうかとか、展示物の並び方が順路と合っていて鑑賞しやすくなっているか、などと余計なことにチェックを入れています。今回の上田市立美術館についても、特別展示と常設展示を合わせて30分以内で全部見られるのは妥当だとか、その入館料は美術館の全体の規模と内容から見て丁度いい金額だとか、評価して見ていました。主催は「小松美羽展」実行委員会ですが、それは上田市上田市教育委員会NBS長野放送からなります。私が特集番組やこの特別展の宣伝を見たのは、NBS長野放送の番組だったことを思い出しました。
 後回しになってしまいましたが、肝心の作品鑑賞について述べてみましょう。あくまで私の意見および感想を述べておきます。正直を言いますと、展示を見に行く前は、理解できない作品の方が多いだろうと思っていました。ところが、実際に展示している作品を目にすると、部分的に意味がわかってきて、それがかえって不思議に思いました。社会や文化の常識を踏まえて意味づけしていくと、かえって作品の理解が難しくなるのかもしれません。(いま流行の「ありのままで」)実物の作品の前に立つと、すんなりとわかることもあるようです。
 例えば、象の鼻の先が人間の手になっていたり、河童のような生き物の両足が魚の尾びれになっているのはなぜか、と考えてみます。そのような絵が教えてくれることは、象の鼻が、人間の手と同じ働きをすることです。その『働き』(という、目には直接見えないもの)の視覚化が、『象の鼻の先の人間の手』として描かれているわけです。同様に、河童の両足は(カエルのような)水かきが通常です。しかし、それを『魚の尾びれ』とすることで、その『働き』を強調化します。また、半人半魚の『人魚』も連想されます。
 ほとんど無地の大きな屏風の作品がありました。それを見ている側に、威圧感もしくは圧迫感のようなものを与えてきました。それは何なのか、と探る前に、その屏風には二つの大きな目が描かれていることに気づきます。その見開いた二つの大きな目が、威圧感とか圧迫感を与えてくる『何か』を視覚化しているのです。「壁に耳あり。障子に目あり。」とは、よく言われていることです。その作品は、そうした何か威圧感を与えるものを表現していたようです。
 また、別の作品では、空に浮かんでいる幾つかの見開いた瞼(まぶた)が描かれていました。最初「これは何だろう?」と思いました。その絵をよくよく見ると、見開いた瞼の一つに、嘴(くちばし)が付いていました。つまり、これは野鳥のちいさな群れが空を飛んでいるのを描いていたのです。私は、そのように想像しました。鳥は空を飛ぶ時に、地上や空中にあるものを注視して飛ばなければならないので、その瞼を大きく見開いているわけです。その『働き』を強調して視覚化するならば、見開いた瞼が空に浮かんでいる絵になるのだと思いました。
 今回の展示を見ていて、私は一つの小さな絵を見て、何かを発見しました。テレビの特別番組では気が付かなかった、あることに気が付いたのです。私の勘違いに過ぎなかったかもしれませんが、一応、ここで述べてみたいと思います。
 それは『金魚』というタイトルの小さな絵でした。見た目がきれいな普通の金魚を描いたのだと思いますが、写真で写した金魚には見られない、汚い色がその絵には混じっていました。写生絵画の常識で考えると、実物には無い色を使うことは珍しくないことです。しかし、その金魚の絵は、色も形もきれいに描かれていいはずなのに、汚い色が混じっているために、金魚全体が汚くも見える。よく、「外見はきれいだけれど、内面は汚い。」という人間像があったりします。その人間像を、生き物全体(動植物)に拡張して、一つの平面(キャンバス)に混ぜこぜにして描いてしまう。とすると、そのような金魚の絵ができると思うのです。
 ここで、パブロ・ピカソ氏の『アビニヨンの娘たち』という有名な絵画を引き合いに出してみましょう。この絵を見て誰もが思うことは、「顔も裸の体もきれいな娘たちだけを描いていれば、きれいな絵になったはずなのに、何であんな醜い顔が一部に描かれているのだ。」ということです。この絵は、ピカソ氏にとっての、キュビズムの先駆的な作品とも言われています。キュビズムとは、大まかに言えば、一つの対象を複数の違った角度から見たものを、区割りした空間や平面に当てはめていく手法です。その手法の応用として、ピカソ氏は、あの娘たちの美しい面と醜い面を一つの平面(キャンバス)に区割りして描いた、と見ることができます。
 そのピカソ氏の作品と比べてみると、先に述べた金魚の絵は、キュビズム的な区割りはせずに、生き物から感じ取れる美しい面と醜い面を混ぜこぜにして一枚の絵にしたと見ることができると思います。それが、この芸術家のとった手法の一つだったと思います。
 よって、内面と外観、もしくは、美醜のような対極的なものを混ぜこぜに描くことによって、生き物が妖怪に見えてくるのではないか、というのが私の立てた仮説です。ただし、一つの対象をどう感じ取っていくかは、その人それぞれだと思います。その感覚がそのままでは伝えられないので、私たちは絵(もしくは、文字)や音(もしくは、言葉)で伝えているわけです。
 この『小松美羽展』で、私は、妖怪のように見える対象を沢山見ることになりましたが、人によっては、それを『命』の表現と見ることができるそうです。私は、それは生き物を多面的に見ている生々しい芸術表現ではないか、と考えさせてもらっています。少なくとも、ピカソ氏のキュビズムの手法とも通じるところがあるのではないかと推測されます。