『メトロポリス』という映画の意味

 『メトロポリス』というと、手塚治虫さんの漫画アニメを思い出す人もいるかもしれませんが、私はそれを見たことがありません。私の場合は、フリッツ・ラング監督のSF映画を意味します。1980年代に私が20代の頃に、ジョルジオ・モロダーさんの再編集リメイクによる『メトロポリス』を見て、初めてこの映画を知りました。
 この映画が無声映画(サイレント)としてドイツで製作されてから、かれこれ90年近くなります。芸術作品として古典の一つと呼ぶには、まだ早いかもしれません。しかし、現代の世界で製作されてきた映画や映像の量と質を考えてみると、SF映画は言うまでもなく、この映画の影響力は多大であったと言えます。少なくとも、私はそう思っています。
 私がそれほどまでに言うからには、かなり入れ込んでいると思われるかもしれません。この映画を観たことがない人や、全く知らない人も多いことでしょう。私が20代の頃に、どういうきっかけでこの映画を知ることになったのかは、私自身よく憶えていません。映画館で観たのかもしれませんが、その時の印象があやふやでしかありませんでした。もっとも、当時ジョルジオ・モロダーさんがこの映画を現代風にアレンジして復刻した事実は、今でもよく憶えています。
 サイレント映画はもともと音声や音楽がついていない映画なのですが、作曲家でシンセサイザー奏者でもあったジョルジオ・モロダーさんは、それに音楽をつけて、そのモノクロ映像にはカラーの色合いを施しました。そのため、当時の映画批評家さんたちに酷評を浴びせられ、この無声映画に(版権・著作権・肖像権などの)コピーライトを持つ人たちからは、コピーライトの侵害だと訴えられていたそうです。
 私は、初めからジョルジオ・モロダーさんのバージョンを観ていた一人です。その映画のオリジナル・サウンドトラック版LPレコードを買いましたし、その映画が観られる二枚組みのレーザーディスクさえ買っていました。今になって思い出してみても、もともとの無声映画(サイレント)が、当時アメリカでバリバリに活躍していたミュージシャンによる楽曲や、モロダーさん自身のシンセサイザーによる音楽によってどんなふうに生まれ変わったのか、興味が尽きなかったはずです。
 ずっと後になって私は、昔ながらのオーケストラの伴奏による、よりオリジナルに近い形でこの映画の一部を見たことがありました。確かに、モロダーさんのバージョンと雰囲気が違っていましたが、何か物足りない気がしました。同じ映像を見ているつもりだったのですか、私の心に感じてくるものには大きな差がありました。
 無声映画(サイレント)というものは、音が後から付加されることを、あらかじめ想定して作られています。後からオーケストラで伴奏が付けられたり、弁士さんの語りが加えられたりするからです。それらができやすいように、映像でできる範囲の補足を行っているようです。例えば、音声が無いため、役者さんが何を言っているのかはわかりません。読唇術を習得していない限り、映画の観客の側からは、わからないわけです。とすれば、演技者の身振り手振りや表情を少し大げさにして、その映像を撮らなければならないわけです。よって、音楽の伴奏や弁士さんの語りに、映画の内容が正しく伝わって反映されるように、映像の大事な部分は誇張され強調されなければなりませんでした。
 結局、無声映画(サイレント)に後から付加される音楽や音声は、普通の映像よりも誇張されていることに配慮していなければならないのです。適当で当たり障りのない、無難な音楽・音声では、BGM(バックグラウンドミュージック)を聞いているのと何ら変わらず、観客を居眠りさせてしまいます。よって、当然のことながら、その音楽や音声は、その映像に合わせたものでなければなりません。音楽や音声付きの映像(いわゆる有声映画もしくはトーキーと呼ばれていたもの)ばかり見ていて、それに慣れている私たち現代人は、少なくともそう考えるのです。
 一方、従来の約束事で無声映画(サイレント)を観ることに慣れてきた人たちから見ると、そうした現代の私たちの感覚には違和感をおぼえるかもしれません。サイレント映画はそれらしく、『過去』を感じさせる作品でなければいけない、と主張されているのかもしれません。よって、ジョルジオ・モロダーさんの採用したやり方には、異議を唱えて酷評せざるをえなかった、と考えられます。
 どんな無声映画(サイレント)についても言えることですが、それらが衰退していったことには、それなりの理由があったと思います。この『メトロポリス』という映画についても、現代の映画もしくは映像に勝るとも劣らない面があると伝えられている、その反面、時が経つにつれて風化して、人々の記憶から忘れ去られていくように思われます。それが、人の世の常なのかもしれません。私がもしも1980年代に、ジョルジオ・モロダーさんの現代的なバージョンでこの映画を知らなかったとしたならば、この映画と実際に出会うことはなかったかもしれません。一生、この映画を知ることはなかったと思います。
 少なくとも、私にとっては、ジョルジオ・モロダーさんによる映画『メトロポリス』を観たことには、それなりの意味があったと言えます。