生木は燃えにくい {大規模山火事災害に思う}

 私は、毎年冬の時期になると、地元の消防署に事前連絡して、あえて周囲に家屋の無い屋外で焚き火をします。周りが田畑に使われていて、延焼の可能性の少ない場所で、バケツに水を用意して、屋外設置の蛇口からホースを引いてきて、きゅうりの木の残渣(ざんさ)や枯れ木・枯れ草を処分するために、農作業の仕事の一環として、一年に一回、3時間だけその焚き火を行うのです。そして、この時期になるといつも問題になるのは、周囲の温度の低さと、草木に含まれる水分のために、燃焼が進まなくて、消防署に連絡して許可をいただいている時間をはみ出してしまうことです。朝9時から正午までと連絡しておきながらも、実際に正午になっても、まだ不燃焼の燃えカスが残っている場合もあります。しかし、焚き火の間はその場所から離れないこと、燃え残りを放置してはいけないため必ず水をかけて消し止めること等が、注意事項となっています。
 燃焼物をあらかじめ乾かしておいて、水分を抜いておくとか、若干、エンジンオイルの廃油を使うこともあります。ガソリンや軽油は危険なので、絶対焚き火には使いません。灯油もある程度は燃えますが、お金がもったいないので使用しません。ただし、木の太い枝や幹は、生物学的に考えると、水分を含んでいるために、燃え残ることが多いと言えます。そこで、私は、それを燃やすために、1年近く前に切っておいたものをずっと野ざらしにしておくことを思いついて、実行してみました。案の定、その90%は一度きりの焚き火で跡形もなく燃え切ってしまいました。
 いわゆる「生木は燃えにくい。」という教訓が得られたというわけです。植物の草木は、その本体が生きていて常時水分を行き来させている『生木の状態』では、おいそれと燃えたりしない。その生きている草木の水分が蒸発して、枯れ木・枯れ草にならないかぎり、それに含まれている水分が邪魔をして炭素が燃えにくくなっている、ということなのです。
 それでは、そのような緑の草木がいっぱいあふれているように見受けられる山林で、近年なぜ大規模な災害級の山火事が起きるのかを検討してみましょう。最近では、環境問題の研究者さんたちが人工衛星などを使って、森林の緑の大規模調査を行ってると、私は聞いています。その緑の木々がどれくらいの二酸化炭素を吸収できるかを彼らは計算しているとも、聞いています。しかしながら、私はそのことが疑問に思えて仕方がありません。その緑の木々が、すべて完全に生きているとするならば、彼らの計算は正しいと言えます。しかし、どう見ても、彼ら研究者は、一本ー本の木々の命とか健康状態とかを見落としているようにしか見えません。そのようなことは、人工衛星から見下ろしたところで容易にわかるわけがないからです。
 地上でその木々のそばで暮らしている土着の人々には、その樹木が枯れているのか。木の枝の形が1年でどのように変わったのか。成長しているのか。朽ちているのか。枯渇している部位があるのか。等々の細かな部分が、日々、気になっています。そして、その心配は決して、空想ではなくて、現実化していると言えましょう。私の推測は、次の通りです。どんな森の緑の中でも、近年の干ばつの多い天候の影響を受けています。その結果、森の多くの植物に『水分の通らなくなった、導管が枯渇して死んでいる部分』が少しずつ増えています。それが、小さな火の気を大きな山火事災害にしてしまう、数多くの導火線になっているのです。
 このように、私は、「生木は燃えにくい。」という事実の教訓から、昨今の大規模な山火事災害の根本にある原因の一つを導き出してみせました。その際に、私は、あえて『地球温暖化』というビッグワードを使わずに話を進めてきました。近年の干ばつあるいは砂漠化の原因究明は、『地球温暖化』という絶対王者的な言葉を使えば簡単に済みます。しかし、それでは現実的な思索は進みません。なぜならば、私の現在居住している海抜500mから600mの地域では、地球温暖化や二酸化酸素などの温室効果ガスの影響がなくなったとしても、どうにもならないほど日中の陽射しが強くて、作物が枯れてしまうということが起きています。地面(または陸地)は熱しやすく冷めやすいため、夜は干ばつの影響がありません。だから、日中の干ばつで水分が枯渇して植物が死ななければ、何とかなることがわかっています。私のいる現場では、空気中の二酸化炭素が足りないと光合成が阻害されて、作物の葉が黄化し、枯渇死を早めることになっています。そのことは、ここ5、6年間に実際に経験してわかったことです。だから、今回のブログ記事では『地球温暖化』や『温室効果ガス』の言葉をあえて使わずに、現在私の思うところを書かせていただきました。
 私は、無条件に自然保護を訴えるつもりではありません。何が何でも自然環境を保護しなければならない、などと主張するつもりはありません。それよりも大切なことは、私たちが、地球上の植物のことをどれだけ知っているのか、ということだと思います。森の緑の木々のどれだけの部分が生きているのか、あるいは、どれだけの部分が死んでいるのかを知らずにして、木を二酸化炭素の貯蔵物のごとく道具みたいに考えていたり、地球温暖化のみをダイレクトに山火事災害の原因に結びつけて考えるのは、どう見ても変だと思います。つまり、本当におかしいのは、そうした人間自己中心的な、おかしな考え方にあると私は観ています。