やってるつもりは要注意

 「そんなこと言われなくても、やっているさ。余計なことを言うな。」と言われそうな言葉です。先日私は、テレビの番組と番組の合い間でたまたまこの言葉を知りました。注意を呼びかけたのは、長野県で感染症対策を担っている自治体の部署のようです。
 皆様は、日々様々な感染症予防対策を、皆様なりにやっていることと思います。しかし、その「やってる」つもりが、過信につながって、「PCR検査や抗原検査を受けてみたら陽性で、検査にひっかかってしまった。」ということもあるのではないかと思われます。
 現に、長野県の疫学調査では、感染者本人に「いつ、どこで、どんなケースで感染したのか。」を聞いてみた結果、とある共通点が見つかったそうです。やっている「つもり」でやっていたことが、実は徹底されていなかった。言葉を換えると、やっている「つもり」でやっていたことに、穴があった。ということだったのです。
 私は、このことをいちいち批判したり非難したりするつもりは毛頭ありません。なぜならば、人間はロボットではないからです。知らず知らずミスや間違いをしてしまったり、全て完璧に成し遂げて生きていけなかったりするのは当然のことです。だから、やっている「つもり」が本当はやっていることにはならなかった(つまり、感染した)という結果になったとしても、本来は、その非を自他共に責めるべきではありません。私たちの心に生ずる心配や不安や不満は、そのことの非を責めなければならないということから増大し、さらに増幅してしまうと言えましょう。
 この「やってるつもり」という状況分析は、長野県の疫学調査の結果を科学的に分析してみてわかった、ということにも注目したいものです。決して、専門家の見識や意見を鵜呑みにしてそのまま伝えたわけでも、十分状況を把握できなかった人の言い過ぎ・やり過ぎからその言葉が生じたわけでもありません。もちろん「余計な心配、おせっかいだ。」と思われてしまうかもしれませんが、そんな感情的な不安とか心配から発せられた言葉では、そもそもありません。あるいは、そうした感情的な不安とか心配を、聞く人にひき起こさせる言葉でもありません。むしろ、その言葉が伝えたい真意は、公平かつ中立的に問題点を指摘することにあると言えましょう。
 一方、同じような意味合いの『感染対策の徹底』という言い回しは、「具体的に何をどう徹底して、やったらいいのか」が曖昧です。そのように大雑把だからこそ、この言葉は人々にあまねく伝わりやすいのです。「とにかく感染症対策を徹底すればよいのだ。」と誰にも判断ができて、即座に理解もされます。ただし、それだけでは、各人が考えて具体的に実行する段階になると、一歩も先に進めないということになりかねない、とも言えます。
 過去に失敗した人たちの意見を分析し集約して、具体的に何をどう気をつければいいのかを示しているという点で、この「やってるつもりは要注意」という言葉は、意義があると私は思います。それでも「しつこい。わかっているのだから、それだけでいいじゃないか。」と感じている人が必ずいると思います。けれども、そうした感情は抜きにして、冷静に具体的な行動に移していけば、きっと皆様の役に立つこと請け合いです。少なくとも、私はそう思います。