正義をかかげたそのセリフに御用心!!

 最近、自粛警察や差別や偏見・蔑視・侮辱を報道するニュースをテレビで拝見することが多くなりました。コロナ禍を根っことする個人的あるいは社会的な不安があるように感じられます。そんなご時世に、私は昔子供の頃に観た、とあるドラマの一つのシーンを思い出すことが多くなりました。その断片的なシーンでは、口ひげの中年紳士が応接室に集まった仲間に「日本のように、精神異常者が野放しにされている国はないと、政府ももっと考えてくれなくっちゃね。」などと述べていました。
 当時の私は、そんなセリフの内容をそれほど気にかけてはいませんでした。なぜならば、それがドラマの中のウソだとわかっていたからです。当時の私の日常では、親などの大人たちから「頭がおかしくなった人は、強制的に精神病院に連れて行かれて、そこに閉じ込められてしまう。だから、気をつけな。」としばしば注意を受けていました。また、それと同じようなことを、同級生の子供うちで遊ぶ中でも聞いていました。つまり、「心に病のある人は、精神病院に入れられて、今まで暮らしていた社会から隔離されてしまう。」という話は、私が子供の頃にみんなから聞かされていた常識でした。また、私が二十歳を過ぎて大人になると、実際に精神疾患やノイローゼになる人たちを身近に知ることとなりました。そして実際に、その人たちがしかるべき施設に入れられて、隔離された現状を私は知ることとなりました。あのテレビドラマの断片のように「日本が精神異常者を野放しにしている」という中年紳士の言葉が間違っているということを、私は現実世界から学んでいました。
 そういうフィクション上の虚偽や不確かさがあったからこそ、かえってその『正義をかかげたセリフ』が私の記憶に残っていたのだと思います。当時の日本に何らかの個人的あるいは社会的な不安があったからこそ、その中年紳士は、とあるドラマの中で、かような現状にそぐわないセリフを言わされることになったようだと、私は推測しています。
 そのセリフの何が問題だったのかを、これから私(わたくし)流の推測で説明いたしましょう。まず冒頭の『日本のように』を『我が国のように』に言い換えてみてください。次に、『精神異常者』を『アジア系住民』や『黒人』や『コロナウィルス感染者』などに置き換えてみましょう。すると、仮に「我が国のように、アジア系住民が野放しにされている国はないと、政府ももっと考えてくれなくっちゃね。」とか「我が国のように、コロナウィルス感染者が野放しにされている国はないと、政府ももっと考えてくれなくっちゃね。」という文言ができあがります。
 それらの文言の意味内容を分析すると、驚くべきことがわかります。つまり、嫌悪や差別の対象が「野放しにされている」という、実際には不確かな情報を作り出して、それを政府などの権力によって懲(こ)らしめようとする何者かの意図がくみ取れます。果たして、これは正義と言えるものなのかというと、はなはだ疑問です。昨今のテレビのニュースを参考にして、もしもこれらの文言がそうしたニュースの背景にあるものとするならば、多くの人々は、その真実に身震いせずにはおれないと思います。少し大げさかもしれませんが、そうしたことで人間不信に陥って、我が身の命を絶ちたいと思う人の気持ちが、私にもよくわかります。あえて間接的に芝居がかって言うならば、それは、さしずめ人間の心にひそむ狂鬼なのかもしれません。
 最近になって私は知ったのですが、冒頭の中年紳士のセリフを偶然ネットで検索中に発見しました。何のドラマの断片だったのかを確認して、やっと私なりに納得がいきました。それは、子供の頃に私がテレビで観ていた特撮ドラマ『怪奇大作戦』の、後に欠番となった第24話のラストに近いシーンだったのです。私は、その30分のドラマ内容のほとんどを観ていなかったか忘れてしまっていて、ラスト近くの一つのシーンだけをたまたま断片的に憶(おぼ)えていたのです。実は、その中年紳士は、SRI(科学捜査研究所)の所長でした。科学を悪用した犯罪に立ち向かう、正義に近い側の人物なのですが、少なからず残念に思える点がありました。
 その点に言及する前に、もう少し一般的な問題を検討してみましょう。その『怪奇大作戦』の第24話が欠番となった理由は、以下のように推測されています。まず「精神異常者の描写に問題があるため」、そして「差別用語が頻発するため」という主に2つの理由でした。いずれも、時代が変わって、社会的に容認できなくなったことが、この回の欠番の理由であろうと一般的に推測されています。
 次に、前者の理由について私の意見を述べましょう。本当は、ドラマの出演者の演技の仕方に問題があったのではなかったようです。にもかかわらず、そう思えてしまうのは、欠番の謎が、この作品をよりミステリアスにして、不吉な憶測を呼んでしまったためと考えられます。岸田森さんなどの役者さんたちの演技を検証しても、次の一点を除いたならば、少しも不自然なところはなかったと私は思います。
 ただ一点だけ、どうしてもダメな点がありました。心神喪失状態の人間が、特定の相手に危害を加えることができる、というこのドラマの中の設定です。現実には、心神喪失状態の人間は、自分自身、および身近にいる不特定の相手にしか危害を加えることができません。もし、その人物が特定の相手に危害を加えることができるとしたならば、心神喪失状態であること自体が成り立ちません。それにまた、この半世紀ほどの間に私が身近に知りえたかぎりでは、『心の病』やノイローゼになった人は、他人に危害を加えるよりも、事故などで自ら命を絶ったり、それが未遂に終わったりするケースのほうが圧倒的に多いと感じられました。要するに、心神喪失状態を利用した完全犯罪が、このドラマの恐怖でありキモなのですが、そのような現実や私の経験から冷静に考えるとウソであることがわかります。しかし、日常的に何らかの不安にさらされて平静さが保てない視聴者にとっては、以上のこうしたこと全てが誤解されてしまって、底なしの恐怖と不安を抱くことになると思いました。
 そこで、SRIの所長の話に戻ります。第24話のラスト近くで言及した『正義の発言』は一般的に考えてどうだったのかをさらに検討いたしましょう。
 一般的に、私たちのほとんどがそうかもしれませんが、『心の病』と聞いてもピンとこないのが普通です。『心の病』になった人のことなどは本当に他人事で、そんな病なんて対岸の火事にすぎないと思っている人は今日でも少なくはないようです。しかし、『心の病』にかかった人からすれば、自ら好んでそうなった人はほとんどいません。生まれつきの性格とか周囲の社会的環境とかが原因で、治したくても治せない。行動の自由を奪われて、隔離施設の中でも暴れてしまう人のこととか、精神安定剤の副作用で常に鉛を持たされているように心身が重くなることとかを、私たちのほとんどは知りません。けれども、私の考えでは、これが現実ではないという言いわけは、今の日本中のどこにもありません。したがって、「日本で精神異常者が野放しにされている」というSRIの所長の発言は極めて不適切であり、この第24話が欠番となることにトドメを刺していると私は思いました。
 それでは、作品的にどうすればよかったのかを、蛇足で付けさせていただきます。あくまでも、私なりの創作としてお許し願います。「日本のように、精神異常者が野放しにされている国はないと、政府ももっと考えてくれなくっちゃね。」と言う所長に対しては、私ならばSRIの一員としてこのように突っ込みを入れます。「所長のそういうところに、人間の狂鬼があるのかもしれませんね。」と、たしなめるわけです。その瞬間に「こいつっ!」と所長からゲンコツを食らうかもしれませんが、私ならばその場で笑って逃げると思います。
 あるいは、SRIの所長の発言が、いささか差別的で、正義の味方としては相応(ふさわ)しくないという観点から、そのセリフの文言自体を改めてしまうということも、私はアイデアとして考えてみました。つまり、正義の側に立つ者は、子供たちの前では差別的であってはならないわけです。そこで、SRIの所長になったつもりで私は次のようなセリフを一生懸命になって考えてみました。「今回の件では、我々にとっても、やりきれないことがあった。しかし、法や科学の誤用と悪用、つまり、法や科学をねじ曲げてしまう人間の狂鬼と、これからも我々は、くじけずに戦っていかなくてはならない。」
 大人の世界に正解はなく、特撮ドラマの中に大人の事情がどうしても反映されてしまうことは、ある意味で仕方のないことなのかもしれません。ただし、それを観ていたテレビの前の子供たちは、いずれいつかは大人になります。彼らが大人になった時に信用されなくなるメッセージを示すのか、それとも、信用してもらえるメッセージを伝えるべきなのかを、ドラマの制作側は判断しなければならず、絶えずそれに苦慮しています。よって、今回の欠番の問題も、その一例だと私は思います。さらに私が考えるに、前者の『信用されなくなるメッセージ』も反面教師としてとらえれば有害ではないと思います。そのためには、メッセージを受け取る視聴者側が、それを盲目的に信用せず、用心して絶えず疑問を持って考えることが必要です。逆に言えば、そのように考えることができるようになることが、大人になった証(あかし)でもあるわけです。だから、自由に問題提起がされて、そうしたことを考える機会を与えてもらえるということは、老若男女にかかわらず誰にとってもありがたいことだと、私は思っています。