上手くいかない男女恋愛の問題を考える

 私ごとですが、本業で、一応スケジュールを立てて作業をやっているのですが、どうしても追加の作業が必要になってしまい、ここ一週間毎日のように作業の遅れを取り戻そうと、格闘していました。その間にも、テレビのニュースや情報番組で、最近の痛ましい、現実に起こった男女間のトラブルと事件を観ていました。そして、私は、一人でいろいろと考えていました。
 ストーカーを扱ったテレビドラマと言えば、渡部篤郎さんがストーカー役だった『ストーカー〜逃げきれぬ愛』と、雛形あきこさんがストーカー役だった『ストーカー・誘う女』の二つが思い浮かびます。両方のドラマとも、人間の怖さを私に感じさせましたが、後者のほうがより見せ物的な要素が強かった気がします。
 その一方、前者のドラマでは、渡部篤郎さんの演じるストーカーとその行為が、何と言っても怖かったと思います。あれだけ怖いと、とても他人事(ひとごと)とは思えませんでした。このドラマのVHSビデオを一巻だけ後に私は買ったのですが、そのパッケージ・カバーに印刷されていた、ストーカー役の渡辺篤郎さんの顔写真に恐怖をおぼえました。
 そのドラマの主題歌の音楽を、坂本龍一さんが担当されていましたが、その曲を聴くと今でもゾッとします。でも、それだけではありませんでした。不思議なことに、この曲の表現するイメージを捉(とら)えれば捉えるほど、ストーカーというものを敵対視することができなくなるのです。忌み嫌って、社会的に排除してしまっても、何も私たちに教訓を残してくれないような気がするのです。
 私だって人間ですから、天から和尚ではありませんし、パーフェクト・ヒューマン(perfect human)というわけには行きません。ストーカー行為をしないことは、日々の、不断の努力によるものだと思います。私の10代・20代・30代を振り返ってみると、正直言って、この件で辛い思いをしたことが数多くあったと思います。
 他にいたストーカーと間違われて、女性からひどい言葉を浴びせかけられたことも何度かありました。そうかと思えば、ストーカーになりそうな行為をして、相手に迷惑をかけてしまい、第三者に注意されて、ふと我に返ったことさえあります。若い頃の私は、人から変に思われたり、そういう印象を与えてしまうような言動が多かったと思います。
 よって、私は、ストーカーの存在やその行為を完全に否定することができません。また、ストーカーが本当は抱いているであろう、ある種の罪悪感(あるいは、悪いと思う気持ち)を完全に忘れ去ることもできません。そうした過去の記憶を完全に否定することや忘却することができれば、耐えがたく辛い思いからは解放されるかもしれません。つまり、それは、男性の私が持つ、コンプレックスの一つなのです。ただし、それはコンプレックスなのだから、克服すればいいじゃないか、という単純な問題ではないのです。本当に怖いのは、そうした過去の辛い思いに蓋(ふた)をして無視することによって、私自身が知らないうちにストーカーになってしまうことだと思うのです。
 このような私の経験から言えることは、相手に迷惑をかけたと思ったら、それで逆上したり自分を正当化しないで、自分が悪いのだということを素直に認めることだと思います。そして、何よりも現実を直視することだと思います。映画やテレビやネットや書物でまことしやかに語られ、あるいは伝えられている男女の恋愛などというものは、現実には存在しないのだと考えることです。男と女は上手くいかないのが普通だ、と考えればいいのです。それに気づけば、ストーカー行為そのものの意味がなくなります。辛いことかもしれませんが、それが現実なのです。
 あのストーカーの彼は、相手の女性を好きだった、と警察に述べているそうです。好きなのに、相手を憎んでしまいました。昔から、愛と憎しみは紙一重と言われています。けれども、それとは別の見方をすることもできると思います。
 いきなり、私ごとで申しわけありませんが、私も、妹から、意にそぐわない物をプレゼントされて、困ったことが何度もあります。身内なので、なかなかハッキリことわれません。そこで、しばしば私は、受け取ったことを忘れたふりをしています。そのような私の対応は、世間的には、ほめられたものではないかもしれません。妹の気持ちを傷つけていると、その度に私は母親から責められています。しかし、私は、私自身の意思を曲げないことが、長い目で見てみれば妹のためになると思うのです。それだけ、妹が、現実の相手(この場合は、私)の事情をわかるようになることは、人として価値があると思うからです。
 やや文学的な表現で申しわけありませんが、あのストーカーの彼が本当に好きだったのは、現実の相手の女性ではなかったのだと思います。その女性の姿と同一視していた、彼の頭の中で作られた『人形』だったのだと思います。
 昔から言われていることとはいえ、一つの対象を愛していて憎んでいる、ということは理解に苦しみます。DVやモラハラの問題の本質がそこにあるとしても、何ともしっくりと行きません。とすれば、頭の中で作られた、相手の姿をした『人形』を愛している反面、現実の相手の姿を憎んでいるという、精神構造のほうがわかりやすいと思います。しかも、その精神構造の持ち主は、相手の姿をした『人形』と、現実の相手の姿が別物であることに気づいていないのです。その二つが別物であるとわかっていたならば、ストーカー行為などという迷惑な行為をする必要も、嫌な思いをして現実の相手を傷つける必要も無かったはずです。
 ストーカーやその行為に私たちが恐怖をおぼえるのは、結局その不可解さにあったのだと思います。あの人は何を考えているかわからない、という不信感が、法的に規制するしかないという結論に、私たちを導くのだと思います。しかし、それは、この問題の根本的な解決には、少しも近づいてはいないと思います。
 こうした問題は、人工知能学をはじめとする、現代の科学でもっと多面的に研究されてもいいと思います。きっと、何かの役に立つと思います。それとも、21世紀の科学者の頭脳では、残念ながらチカラ不足で、研究不可能と決めつけられてしまうのでしょうか。そう結論づけるのはまだ早い、と私には思えます。