遺書のない自殺について思うこと

 最初に一つだけ述べさせていただきますが、「新しいことに直面して、場当たり的でない人は、この世に一人もいない。」と思います。私は、現政権支持者でも体制支持者でもありませんが、メディアにだって場当たり的な部分は少なくなかったと、私はテレビを観て思っています。新しいことに直面して場当たり的にならないためには、一つの案件を片付けるために5年か10年はかかると思います。そんなことをしていたら、ほとんどの場合は手遅れになってしまうことでしょう。結局私たちにできることは、批判はあくまでも批判として、反省はあくまでも反省として、受け取ることしかないのかもしれません。
 さて、本題に入りますが、ここ最近において、有名人の方々の『遺書のない自殺』の背景が、私には気になりました。あらゆる自殺は、当人不在のため、当人の口からそのワケを聞き出すことはできません。なぜ生きるのがイヤになったのか、なぜ命を絶ちたいと思ったのかを直接当人から答えてもらうことはできません。現在を生きている私たちは、イジメやひぼう中傷を受けたことに、自殺の原因を求めてしまいがちです。もちろん、その考え方や推測で間違ってはいないとは思います。けれども、それだけなのでしょうか。それで、この問題のすべてが解明されたと言えるのでしょうか。その答えはノーです。まだまだ解明されていないことが多くて、その真相にはたどり着けていないと思います。
 これから私が述べることもまた、そうした真相にたどり着いたとはいえないかもしれません。しかし、考えうる一つの可能性、つまり、一つの仮説として示したいと思っています。すなわち、昨今のネットなどのひぼう中傷などで、その厳罰化が叫ばれる一方で、それだけでは解消できない『人間の本性』の問題と関係があります。かつて私は、「人間がひぼう中傷をやってしまうのは生理的なもの」であると、自身のブログ記事で書きました。「ひぼう中傷をやってはいけない。」と、いくら自らに戒めたとしても結局やってしまうのが、普通の人間の性(さが)なのかもしれません。誰でも、無意識のうちに、他者をひぼう中傷してしまうことがあるものです。心理学上、それは少しも異常なことではありません。
 現代では、そのひぼう中傷が、家族や家庭に向かえばDVとなり問題になります。また、対人間関係内で起これば、弱い者いじめになって問題になります。そして、ついには、他人に何を言ってもひぼう中傷と取られてしまうようになります。学校の教師が生徒に何か言ったくらいで、体罰だと受け取られてしまいます。会社の上司が部下に何か言ったくらいでパワハラだと受け取られてしまいます。
 以上の例は、多少極端だったかもしれません。しかし、私たちの脳内では、知らず知らずにメディアからの刷り込みがあって、それが人間性の危機的な状況を生んでいます。すなわち、「自らが発した(あるいは発信した)言葉がどんな言葉であろうと、誰かをひぼう中傷することになってしまう。」と自ら考えてしまう、そういう人が世の中に増えているようなのです。「何を言っても、誰かを傷つけてしまう。」という強迫観念が巣食ってしまい、誰に何も話せなくなるのです。誰にも相談ができずに、その人は命を絶ちます。誰も傷つけたくないために、何も言葉を遺書として残さずに、この世を去っていくのです。
 当然、そんな私の話は出来過ぎている、という批判はあることでしょう。もちろん、そんな私の話をはるかに超える真相が解明されることを、私は願っています。そのような真相の解明で、少しでも多くの自殺志願者が、その命を救われることを切に願っています。