ある種の通過儀礼について

 1994年になって、フジテレビの月9でオンエアされた『この世の果て』というドラマがありました。(後に私は、VHSビデオ化したこのドラマを1巻だけ買いました。)尾崎豊さん歌唱の”Oh My Little Girl”という曲が、毎回ドラマのエンディングテーマとして流れていました。ちなみに、”Oh my little girl”という歌詞フレーズから類推される言葉は、”Oh my darling”(いとおしい人)や”my darling daughter”(私のまな娘)などです。このドラマが、人肌恋しくなるような寒い時期にオンエアされていたのを私は思い出します。
 流浪の番組タモリ倶楽部』の空耳アワーじゃありませんが、この”Oh my little girl”という歌詞フレーズは(失礼ながら)毎回私の耳には「あまりがある。」と聞こえていました。一体何の余りがあるのかと、疑問を抱かれるかもしれません。そんな私としても、何の余りがあるのかは、あの頃わかりませんでした。その思いは、つまり、漠然としていました。ただあの頃は、そのような漠然とした不安の中で、何かが明らかになるまで、あと5年もあると思っていました。
 実は、その頃は、ノストラダムスの大予言や、仏教の末法思想の影響で、意識的あるいは無意識的に人々の心を不安にしていたようです。「1999年までの、あと5年間くらいのうちに、何か大事なことをしておかなければ…。」と感じた人も、ひょっとしたらいたかもしれません。
 知っている人は骨身にしみているかもしれませんが、知らない人のために、いちおう説明しておきます。ノストラダムスの大予言は、(諸説や別の解釈があるものの)1999年あたりで全人類が滅んでしまうかもしれないというものでした。私は、1970年代のちょうど思春期の頃に、中学生の友人から本をすすめられて、その考え方を知りました。当時、ノストラダムスの大予言について解説したその本は、日本国内でベストセラーになっていました。つまり、当時多くの人々の心の片隅には、「1999年7月に人類全体に何かが起きて終わってしまうかもしれない」ということに、漠然とした不安を抱いていました。
 また、仏教の末法思想からの影響についても、説明しておきます。(仏教の末法思想そのものについては、別途ネットでお調べください。)古文書などの記述をみても、世紀末などの節目の年代に近づくと、この世の終わりを示唆するような出来事に、人々の関心が向きやすくなることが、知られています。すなわち、自然の大災害や疫病の大流行などの『人の力ではどうにもならない惨事』が起こりやすくなる、とみられていました。「(社会が乱れて)世も末だ。」と口にする高齢者もしばしば見受けられました。20世紀の終わりに近づく(あるいは西暦1999年に近づく)につれて、将来を予測できないことへの不安が、ある意味多くの人々の心を虫食(むしば)んでいたとも言えます。
 そんなふうに、あの頃の日本の時代背景(あるいは、その時代の裏にある何かと言えるもの)には、ノストラダムスの大予言や、仏教の末法思想などの影響があったと考えられます。そのような見方をするならば、『この世の果て』というドラマが、終始一貫して暗いドラマであり、登場人物の誰もが悲惨な人生を背負っていくことの意味が理解できると思います。その暗くて悲惨な人生は、あの頃の時代の必然でもあった、と考えられます。
 もっとも、多くの人々のそのような漠然とした不安や心配は、西暦2000年を越えて21世紀になると、すんなりと忘れ去られます。抜け落ちた記憶として、誰もが振り返らなくなりました。だから、今の若い人たちが、このドラマの人物たちの悲惨で理不尽な言動を観るならば、それはきっと受け入れられないことでしょう。富や名声などの世俗的な幸せを振り切ってまで、自己犠牲の精神に走るなんて、今の若い人たちには理解できないことでしょう。結局そうしてたどり着いた先には、決して報われない悲惨な生活しかありません。どう考えても、今の若い人たちには理解できないと思います。
 「かつて、恋とは、そういうものだった。」と考えるならば、少しは理解されるかもしれません。そもそも『恋』とは、道ならぬものです。この世が不安定なものだからこそ、肯定感があるのです。かつての私が、このドラマのVHSビデオを1巻だけ買ったのも、このドラマに出演していた若い頃の横山めぐみさんを、ちょっとだけ好きになったからでした。その後の私は、仕事の失業中に昼ドラの『真珠夫人』で、彼女の出演を観たことがありました。けれども、『この世の果て』の彼女のほうが、強烈な印象を私に残しました。失礼を承知で言わせてもらうと、『心がきれいなお姉さん』よりも『心がきたないお姉さん』のほうが、ドラマの中では私は好きなのかもしれません。
 そして、私が、このドラマを観て、心に思ったことは次のようなことです。そもそも、人間は何のために生きているのか。もしかして、それが幸せになるため、あるいは、何らかの望みがかなうためだとしたならば、その目的にたどり着けなかった人間はどうなるのか。たとえば、そのような人間は、この世の果てを見てしまうのか。いったい、この世の果てには何があるというのか。―― 結局そのように答えの出ない問いを重ねつつも、考えるのをやめてしまいました。
 そんな現代では、自然の大災害や疫病の大流行に起因するニュースが毎日のようにメディアを賑(にぎ)わすようになりました。そして、さらにその先が見えないと言って、みんなが困っているのです。
 そうやって考えてみると、あのノストラダムスの大予言にしても、仏教の末法思想の影響にしても、当時の私自身がそれらに影響されていたことが、それほど悪いことではなかったと思うようになりました。あれは、一種の通過儀礼だったかもしれない。すなわち、今から思えば、心の免疫力を鍛(きた)えるワクチンのようなものだったかもしれない、と思うようになりました。
 もちろん、立派な言動を行う他人(ひと)に誹謗(ひぼう)中傷なとしてはいけませんが、人間は誰しも常に立派ではない、というのも事実だと思います。そして、平穏な生活自体も当たり前ではなかった、というのも事実です。そのように考えてみると、『この世の果て』というドラマは、人々の悲惨な人生を描いた単に暗いだけのドラマではなかったと言えます。世俗的なことや偽りを捨てて、虚構(フィクション)を組み立てていけば、そのようなドラマになるということなのでしょう。少々理屈っぽい説明になってしまいましたが、そういうことだと私は思います。