本当に素朴な2つの疑問

  最初に言っておきますが、PCR検査とは、採取した検体から特定の微生物の遺伝子を検出する検査方法です。世間では、新型コロナウィルスの感染を検知するための唯一無二の検査方法のイメージですが、はしか(急性熱性発疹ウィルス)の感染などにも利用できます。もっとも、私ははしかに感染し発症した際にPCR検査を受けてはいません。当時は、検査を受けなくても、流行り病は症状の異常さでわかるものでした。たしか、小児科のお医者さんに行ってはいけないと誰かに言われた覚えがあります。お医者さんの待合室で、他の子供の患者に感染させてしまうからだ、と教わりました。それから2年後に、水ぼうそうに感染発症した時も同じことを言われました。ただし、その時は、体中に豆粒ほどの水ぶくれが多数できて、高熱もあったので、近所の内科のお医者さんに行って、静脈注射で解熱剤を打ってもらい、皮膚の水ぶくれの箇所につける塗り薬をもらった記憶があります。
 さて、『検査と隔離』を原則とする現代のコロナ禍の経済対策について、私は次のような2つの疑問を抱いてしまいました。
1.PCR検査で陰性が確認された者同士は濃厚接触しても大丈夫なのか。
2.PCR検査で陽性が確認された者をすべて隔離できた社会では、あらゆる感染症対策をやめても大丈夫なのか。
これら2つの疑問に共通して言えることは、「PCR検査が絶対的な安心を担保してくれる」という前提に基づいていることです。濃厚接触したい者同士は、その行為の前に検査簡易キットで検査し合えば問題ないということです。また、陽性者がいない生活空間では、新型コロナウィルス感染拡大前の日常に戻ってよいということになります。このようなコロナ禍の経済システム設計について、疑い深い私のような者には、何かが間違っているように思えて仕方がありません。
 今回のPCR検査の拡充劇で唯一明らかになったことがあると思います。すなわち、過去に流行した感染症終息の真相を、PCR検査というサイエンスの眼が暴(あば)いてしまったようなのです。実は、感染症が終息するという状況は、多くの無症状者に『見えない感染』を繰り返していくという状況だったようです。50年前も、100年前も、患者の症状の表層的な診断のみでした。表面的には感染症が終息するように見えて、現在のような社会的不安に陥らなかったようなのです。
 したがって、そうした過去の真相に鑑(かんが)みて、現在の私たち日本人がPCR検査の拡充を社会的に承認するためには、いかなる感情的な判断をも禁じる必要があるということです。感情的になって社会不安をあおった者には、罰金や監禁や勧告などの法的措置をとらなければならなくなることでしょう。この問題には、そういう面倒くさい世の中になってしまう危険性があると言えましょう。
 「経済を回す」という言葉は、響きの良い、かっこいい言葉です。しかし、実際に日々働いている私の感想を正直に申しますと、「今までよりも、もっと働け」というふうに心の奥に響いてきます。確かに、ここのところ毎日が、野菜の栽培と収穫で忙しくて大変です。でも、何か大きなことでダマされているような気がしてなりません。「陽性者がいない生活空間が多くの人たちに安心感を与えて経済を回せる」すなわち「みんな死ぬ気になって仕事に専念できる」というのは、いわば、絵にかいた餅、ならぬ、絵にかいたアンパンであるような気がします。その『絵にかいたアンパン』を経済競争という運動会で、パン食い競争のごとく目の前にチラつかされているのが、現在の私たち庶民の姿のような気がします。
 ここで一つ昔話をいたしましょう。超現代版の『浦島太郎』です。昔々あるところに、浦島太郎という青年が『ステイホーム』という竜宮城から、これまでの日常生活を取り戻すべく、地上に戻ってまいりました。彼はホームシックになっていたようです。夢見心地だった、竜宮城での非日常的な生活にあきてしまい、もう一度、今まで通りの日常生活をしていた我が家のある地上に戻ってまいりました。ところが、そこで彼が目にしたものは、すべてが変わっていました。あたりは見知らぬ人ばかりで、彼のことを知る人は誰もいませんでした。彼は、寂しさと不安に苛(さいな)まれて、玉手箱を開けることに思い至ります。乙姫様からは、出来れば開けないで済ませてほしいと、念まで押されていました。けれども、その誘惑を抑えることはできませんでした。すると、モクモクと白い煙が立ちのぼりました。浦島太郎はたちまちヨボヨボのお爺さんになってしまいました。
 いきなり老人になってしまった彼は、玉手箱を開ける必要などなかったことに、そうなって初めてに気がつきます。そもそも、自らの命を縮める必要など全くありませんでした。過去の日常は『記憶』として心の奥にしまっておいて、見慣れぬ日常に直面していたら「いいじゃん。すげえじゃん。」と思っていさえすればよかったのです。(最近私は、地元のレンタルビデオ屋さんで毎回一巻ずつ借りて『仮面ライダー電王』の本編全巻を観終わりました。平成仮面ライダーシリーズの中でも、後味(あとあじ)の良い終わり方をしていた作品の一つでした。それで、その本編やオープニング主題歌にインスパイヤーされて、その文句や言い回しを借用させていただきました。)
 現在の感染症予防対策は、私たちがイメージしている以上に、強力で安全でかつ有効性があります。ひょっとすると、ワクチンや治療薬など必要としなくても、安全安心を獲得できるのかもしれない、と最近になって私は思うようになりました。「手洗いか、手指の消毒」「3密を避ける」「ソーシャル・ディスタンスをとる」「ヒトとヒトとの対面には、お互いにマスクをする」あるいは「ヒトとヒトとの間を、透明のアクリル板やビニールシートでさえぎる」などなど、様々な感染症予防対策をとることによって、劇的な効果が期待できます。そもそも、集団免疫の考え方は、免疫のある人たちが『壁』になって、感染症弱者を守るというものです。そのヒトの部分をモノに置き換えて、ウィルスの感染を予防しようとするわけです。集団免疫よりも、強力で安全で有効性があるわけです。しかも、現在の感染症予防対策は、新型コロナウィルスがどんなに変異したとしても、その対策の内容を変える必要がありません。しいて言えば、ほかの病原体に対しても有効であり、病原体がこれまでとは全く違うものに変異しないかぎり、その安全性や有効性が失われることはないと思われます。その対策にはムラが無く、感染者と非感染者を区別する必要がないため、そのことによる差別や人権侵害も起こりにくいと考えられます。
 したがって、人類の歴史に残るのは、そのような様々な感染症予防対策であり、PCR検査の拡充のみではないことがわかると思います。ソーシャル・ディスタンスを一つ例にとってみても、そのことはよく理解できます。人間の口から吐き出されたウィルスが、他の人間に感染する前に地面に落ちてしまう距離や間隔のことを考えたものと言えます。地面に落ちた飛沫に含まれるウィルスは、人間に寄生できない限り活性化や増殖はできなくなり、いずれ非活性化し増殖もできなくなって残骸化してしまいます。科学的によく考えられた対策の一つであるわけです。
 私たちは、それぞれの対策を丸暗記して、盲目に従いがちです。しかし、本当は、その意味や意義を一つ一つ理解して、その有効性や安全性に確証を持つべきだと思います。そうすることによって、本来は無用であるはずの不安・不信を払拭(ふっしょく)して、安心してそれぞれの対策を誤用なく実行できるようになることでしょう。感染症を予防する対策をとったものの十分でなかった、ということもなくなるはずです。となれば、そうした様々な感染症予防対策をとる日常空間が、それらの対策をとらない日常空間よりも安全安心なことは、火を見るよりも明らかなことだと思います。そのようにして一つ一つ地道に理解したものは、科学的な知識として大事に記憶しておくとよいと思います。