本業に本腰を入れて見えてきたもの

 実は、6月の中頃から、私の身に大変なことが起こり始めていました。このダイアリーを書くための時間が全く取れないという事態におちいってしまったのです。でも、仮に無理をしてでも、このブログ記事を書き続けていたとしたならば、今ごろ私は過労死していたかもしれません。
 事の発端は、6月中頃に、地元の農産物直売所で、去年収穫したお米を全て売り切ったことにありました。作ったお米を例年より早く完売できたのだから、本当は良かったはずなのです。ところが、私が、自称コメ屋でなくなった時点で、次の課題に目が向いてしまったために、過度に労力をつぎ込むことになってしまいました。
 ここ数年の私は、きゅうりの栽培と出荷に、それほど本腰を入れていませんでした。それには、いくつかの私なりの理由がありました。その理由の検討に入ると、複雑な事情をここで述べなければなりません。よって、それは、またの機会にすることにしましょう。ただ、私の周囲では、きゅうりの栽培と出荷の成績が良くないことを、懸念するウワサがしばしささやかれていました。私は、時たま、その悪評の一部をキャッチしてはいましたが、何も方策を取らずに、この課題を放置してきました。
 今回の私は、そのことにちょうど目が向いてしまい、放っておけなくなってしまったのです。確かに、きゅうりの栽培と出荷は手間がかかって、しかも、大量の時間を費やします。朝は、サラリーマンの出勤前ぐらいに、きゅうりを収穫し終えて、夕は、サラリーマンの帰宅後くらいから、きゅうりを取り始めます。きゅうりを収穫するだけだったら、それでも大したことはありません。しかし、さらに朝夕の収穫後に、きゅうりの長さや見映えの良否で分類整理をして、それぞれ箱詰めや袋詰めをしないと、JAの集荷場も農産物直売所も商品として受け取ってくれません。さらに、(サラリーマンの働いている)日中には、水やりや消毒や追肥や摘葉・摘果や蔓(つる)の誘引・仕立て等々のきゅうりの栽培技術を、その収穫技術の習得と共に、毎日やっていかなければなりませんでした。
 つまり、この一連の仕事の流れは、家族労働を基盤としたシステムとして作られており、単身者の私には、圧倒的に不利な仕組みになっているのです。かなり前から私はそのことに気づいていましたが、そのことを公言すると、「お前は、この仕事には向かないから、やめてほしい。」と、せっかく就農してその技術を身につけてきた仕事を取り上げられてしまうので、これまでどんな逆風があっても耐え忍んできたわけです。
 ところで、大学を卒業して社会に出た私の半生を振り返ってみると、過労死や過労自殺をしてもおかしくない状況におかれていたことが、本当に数えきれないほどありました。そうした数々の危機に、もしも過労死や過労自殺していたならば、百の命があっても足りなかったことでしょう。私は、どんな仕事をしても、生まれつき要領が悪いのだと理解しました。
 ですから、私と同じ仕事の内容で、私のように徹夜をしたりすることが一度も無く、私のように日中の炎天下の仕事によって熱中症になる危険にさらされることもなく、私よりもきゅうりを沢山収穫して頑張っている生産者は沢山います。私が観察したところでは、私より十歳若いある生産者は、その奥さんの意見が厳しくて、絶対徹夜をさせないことに、二人の間の話が決まっているようです。その奥さんは農家の出ではありませんが、旦那の彼が普段よりも残業しそうになると、彼の持っている仕事を徹底的に手伝って、仕事を片付けるために言うべき意見は言うという方針のようです。
 そうした彼らから見ると、私などは気ままに仕事をやっているほうなのかもしれません。昼間からの重労働で体が疲れたため、夜中の作業場でうとうとして眠ってしまっても、誰にも注意されることがありません。24時間働いていても、残業代は一切ありません。でも、その代わり、どんなに徹夜しても、私は体調を維持することができます。定時間内で終わらせようと無理をして働いて体を壊してしまった、高度経済成長期の私の父の姿が、その教訓としてあるのかもしれません。
 仕事を継続していくこと、あるいは、仕事全体の流れを止めないようにしていくには、無理は禁物です。よって、私は、『働き方改革』ということに一つの意見を持つようになりました。それも、この約三ケ月の間の過酷な労働の中から見えてきたことなのですが、この課題には、立場の違いによって受け取り方が2つになる、ということが言えると思います。雇用される労働者の側から見ると、過労死や過労自殺は、仕事のシステム(あるいは仕組み)を作った会社側(あるいは経営者側)に責任があると考えます。
 一方、脱サラして会社に雇用されていない私の側から見ると、過労死や過労自殺は、脱サラしてもしなくても関係なくて、その人個人の生き方や性格(あるいは働き方)の問題であり、私自身の行動に責任があると考えられるのです。つまり、私自身が過労死や過労自殺することは、自己管理能力を失った私自身に責任があると考えられるわけです。