梅にウグイスと言うけれど…

 今日の日中、私は屋外で作業をしていたのですが、辺(あた)りが暖かくなってきたせいか、ウグイスの鳴く声を聞きました。「ホーホケキョ」とか「ケキョ」と、しきりに鳴いているので、どこから鳴いているのかと目を向けると、そこには梅とアンズの木がありました。それらの木の枝は、既に花でいっぱいになっていました。
 ところが、それらの木には、ウグイスが枝にとまっていませんでした。姿が見えなくても、それでもどこかで鳴いているのです。
 ウグイスの声を聞き、花でいっぱいの梅の木を見たので、いわゆる状況証拠はそろっていました。けれども、花札の絵柄にあるようないわゆる「梅の木の枝に、ウグイスがとまっている」というイメージは、現実にはありませんでした。別にそれが残念だと思ったわけではありませんが、私たちの直面する現実の事象というものは、そういうようなことが多いような気がします。現実のウグイスに、「何で梅の木の上で、鳴かないのか。」とたずねても、意味のないような感じがします。
 それどころか、『梅にウグイス』という花札の絵柄が、私たち人間の都合がいいように描かれたとさえ思えてしまいます。梅の木の枝にウグイスがとまることを、必ずしも否定しているわけではありませんが、それはあくまでも春のイメージをデザインで表現しているにすぎないのかもしれません。私たち人間が、そのように都合よく想像しているにすぎないのかもしれません。
 だとすれば、私たち人間の想像力というものは、かようなものにすぎず、もともとはそれほど偉大なものでも高尚なものでもないのかもしれません。人工知能などの機械がそれをマネできるようになったとしても、本当はそれほど驚くべきことでもないのかもしれません。そう私には、思えました。