ローカルな東京

 私は、今回もまた、年末の29日に、長野県から実家のある東京へ戻りました。実家の二階の部屋の窓から、東京スカイツリーの上半分を見て、東京へ帰ってきたことを自覚したくらい、日常的な感覚は余り変わっていませんでした。
 というのは、私は、東京で生まれて、東京で育って、東京で暮らしていた、その期間が長かったために、東京に居ても、それがそれほど特別なことのように思ったことがなかったのです。私の実家の家族が皆、もともと長野県から出てきた人間か、あるいは、その子孫であったために、私にとっては、長野県に居ても、東京に居ても、それほど変化がない生活環境なのです。
 問題は、私が直(じか)に見て感じている東京の日常にあると思いました。それは、太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』で歌われていたような「(都会が)毎日愉快に過ごす街角」では、決してありませんでした。その普段の生活は、面白くも何ともない、ありふれた、何処にもあるような日常生活としか思えませんでした。
 地方の人がテレビで目にするような、日本の社会や文化の中心地としての『派手で華(はな)やかな東京』、すなわち、現代的に言えば『グローバルな東京』というイメージがあることは認めます。しかし、もともと東京で生まれ育ったはずの私には、それが実感できないのです。
 そのために、私は、「都会で暮らしているのに損をしている。」もしくは「都会に暮らしていることの恩恵を受けていない。」と他人(ひと)から言われ続けてきました。他人からそのように言われても、私はどうすることもできませんでした。なぜならば、そうした東京の一般的なイメージとは違う、別のイメージを私は持っていたからです。
 そう言えば、こんな話もありました。私の母は、長野県の高校に通っていた頃に、学校の先生からこんな話を聞いたことがあるそうです。「東京って、すごい場所だぞ。ボタンを押すだけで、壁から寝床のベットが飛び出してくるんだぞ。」その学校の先生は、昭和三十年になる直前にそんな話を、まことしやかに生徒たちにしていたのだそうです。私の母は、その話を信じて、『すごい場所』である東京に出てきました。が、それで初めて、その話がウソだったということを知ったそうです。ちなみに、自動車のエアーバックじゃあるまいし、そのようなことは、現在の東京でも実現していません。
 地方の人たちから見れば『グローバルで華やかな東京』というイメージを抱いて、それを目指して、上京してくるのだと思います。しかし、そこにある現実的かつ日常的な東京の真の姿は、それほど『グローバル』でも『華やか』でもないのではないかと、私は疑っているのです。
 もちろん、多くの人たちが『グローバルで華やかな東京』を意識して、今日までそのようにイメージしてきたことは、否定できない事実だと思います。だからこそ、日本中の多くの人たちが、東京にある種のあこがれを抱いて集まってきたのだ、ということも明白な事実なわけです。
 けれども、実際に冷静になって考えてみれば、そんなふうに意識する必要はなかったのかもしれません。私の経験から言えば、テレビのローカル放送局の番組を観てみると、それがよくわかると思います。地方の放送局の番組に使われているスタジオのセットなどを、テレビを通じて見てみると、(私の場合は長野県のローカル放送局のテレビ番組をよく観ていますが)それほど都会的な煩雑さや派手さがありません。実は、東京の放送局にも、全国ネットされていないローカルなテレビ番組があります。それと比較してみても、地方と東京では、それほど違いがないように思えます。
 つまり、東京という場所には、日本全国の多くの人たちがテレビの全国ネットなどで知っている、『グローバルで華やかな東京』がある、その一方では、そこで実際に生活をしている人たちが普段の日常で接している『ローカルで地味な東京』があるのかもしれません。そして、後者は、地方にある普通の町と表面上はそれほど違わないようなのです。
 もちろん、現在の私が、長野県で日々都会化しつつある地域で仕事をしているから、そんな意見を持ってしまうのかもしれません。もっと交通に不便な、人里離れた、地方の山村や漁村などに行ってみれば、もっと違う意見を持てるのかもしれません。しかし、人間が普通に生活していくために何が最低限必要なのかと考えていくと、今日(こんにち)では、その水準を十分にクリアしている日本各地域が少なくないと考えられます。その中で、東京という都会だけが、いろいろなものが煩雑にあって、派手に目立っている、唯一の地域だということだけなのかもしれません。
 このように、私は東京をローカルなものと見てきました。ですから、「東京の学校で勉強しなきゃ、これからの人生はダメだ。」とか「東京の会社に就職しなきゃ、これからの人生はダメだ。」とか思って、東京に出てくる地方の若者たち各人には、それなりの計り知れない志(こころざし)があるように感じられます。私自身がそれほど感動していなかったものに、彼らや彼女らは、過大な期待で胸をふくらませているのだと思います。それが、必ずしも良い結果を招くかどうか、あるいは、悪い結果を招くかどうかは、わかりません。ともかく、そうした地方の若者たちに一つだけ気づいて欲しいことがあります。「東京だって、ローカルな地域の一つにすぎない」と、本当の東京の姿に、いつか必ず気づいて欲しいと、私は願わずにはいられないのです。