『ありがとう』の不可解と大切さについて

 東京生まれで東京育ちの私は、子供の頃に長野県の母の実家へ行くたびに、ハテナ?と思うことがありました。ただし、当時は、東京に戻るとそのことを忘れてしまいました。すなわち、そのことをそれほど重大視してはいなかったのです。それをそれほど疑問に思わずにいてしまったというわけです。

 それは、どんなことだったのかと申しますと、私の母の親族の人たちから話しかけられる、ある言葉があまりに多かったので、その言葉をどう理解していいのか、また、どう言葉を返していいのか判断ができませんでした。結局、その言葉を言われるたびに、都会育ちの私はおし黙ってしまい、困惑していました。

 彼らは、事ある毎に「ありがとう」という言葉を言ってくるのです。ところが、それが私の何に対する「ありがとう」なのか、つまり、私の何に感謝してそう言ってくるのか、どうしてもわかりませんでした。しかも、その理由を私の側から聞こうとすることは、恥ずかしい気がしました。だから、彼らの誰にもそのことを聞くことができませんでした。

 私の母は、と申しますと、そのことを疑問に思っている様子もなく、本人の実家に帰っても、それほど「ありがとう」という言葉を口のしていなかったようです。私の母にしてみれば、そうした感謝の言葉を改まって言うこともない位、都会慣れした調子が普通だったのでしょう。

  私は(おそらく、私の母も)思っていたのですが、余りそうした「ありがとう」という言葉を日常的に口にしていると、他人から「人が好(よ)い」とか「お人好しだ」とか言われて馬鹿にされると考えていました。だから、生まれも育ちも都会だった私は、「ありがとう」という言葉が言いにくくて、代わりに「どうも…」としばしば口ごもっていました。そのため、相手に感謝の気持ちを十分に伝えることができませんでした。長野県の地元の人たちからしたら、都会の人間は素直に気持ちを表せない、何を考えているのかわからない、その心が冷たく感じられたことでしょう。

 このことは、田舎の考え方と都会の考え方が違っていたという、まさに一つの好い例でした。だから、あえて私も、彼らに何について感謝しているのかを問いたださなかったのです。もちろん、そのような考え方は都会的だったと言えましょう。

 しかし、今になって考えてみると、長野県で生まれ育った人たちが、特別に人が好(よ)かったか、あるいは、『お人好し』だったかと言えば、そうではなかったと思います。本当は、長野県人は『お人好し』ではなかったのです。特に現在でははっきりしていますが、そう思われたのは都会的な風評の一種だったようです。

 当時の彼らが、どうして「ありがとう」を日常的に多用していたのかを、考えてみることにしました。すると、私は、現代的な一つの考え方、あるいは、一つの見方にたどり着くことができました。要するに、この「ありがとう」という言葉は、人と人とのコミュニケーション・ツールの一つだったのです。お互い相手と構えずに、気軽に会話できるようにするためのツール(道具)としての言葉でした。

 今でもそうですが、長野県人は、ひと言多かったり、余計なことを話しすぎます。それで、他県の人たちを傷つけて嫌われることも少なくないようです。だから、この言葉を多用することによって、お互いに相手と構えずに、なるべく気軽に話し合いを進める必要があったと言えます。言い換えれば、ギスギスした人間関係を少しでも緩和するために、この言葉は彼らに多用されていた、と私には思われました。

 確かに、「ありがとう(ございます)」という言葉は、そう簡単に手軽に口に出すことはできないかもしれません。何度も口に出すには、やっぱり言葉が長すぎます。言いにくいかもしれません。しかし、昨今の都会の風潮を考えると、他人に感謝をすることよりも、他人を批判することのほうが、ずっと楽に思われている節があります。人間関係がギスギスして、その中から派生するのが、働きづらさであったり、生活しづらさであったり、生きづらさであったりするわけです。

 そんな時に、話す相手とのトゲトゲした関係を緩和させることは大切です。それは、何としても必要な作業と言えます。そのために、まず、何らかの感謝の気持ちをハッキリとした言葉で相手に伝えられたら、良いと言えましょう。そのための、お互いの間の好(よ)い印象づくりに「ありがとう」という言葉が使えるということは、(都会的な視点で見てみても)意外と大切なことなのかもしれません。