『不思議な幻燈館』にまつわる不思議な話

 『不思議な幻燈館』は、私が30歳の頃にテレビ朝日で深夜にやっていたテレビドラマでした。一部ビデオテープに録画したこともあったのですが、都会に住んでいた私にとっては余りに怖くて、録画も視聴も途中でやめてしまいました。確か最終回と前の回の2回は観たのですが、総集編としてこれまで放送してきたドラマのいくつかをランキング形式で紹介していました。
 テレビで放映されたその名場面やダイジェスト版が、どのような基準で選ばれていたのか、今もなお私にはわかりませんが、私がテレビで観ていた話の一つがそのランキングには入っていませんでした。ビデオに録画をすることを忘れていましたが、確かに私は、この『不思議な幻燈館』のドラマの一つとして、その放送回を観たはずなのです。余りに不思議な話だったので、30歳の私は、そのドラマの内容を小説の形式で文章化しています。ビデオで録画しなかったことを後悔して、たまたま深夜にテレビで観たものを、文字にしていたのです。
 その話は、一人のOL女性が主人公でしたが、時々記憶が失われて、恐ろしいことになるという内容でした。日常、私たちは、ちょっとしたことを忘れて、過去の記憶をどうしても思い出せない、ということがたびたびあります。ただし、この女性のように、そのような症状が酷(ひど)くなって、それに恐怖を感じる、とまでは行きません。そのような女性の例は、珍しいと言えます。『不思議な幻燈館』という番組では、恐怖という観点からそれをドラマにしています。ミステリーというフィクションであるゆえに出来ることです。
 ちなみに、私は、お金をもらうためや、文学賞をとるために小説を書いたことがありません。10代の若い頃は、詩や物語をよく書いていたのですが、他人に見せると否定されることのほうが多かったようです。作風としては、太宰治さんの大人の小説風で、ちょっと記述や内容がエッチです。芥川賞などの受賞を目指す人は、私の真似をしない方がいいと思います。純文学の小説家を目指している人には、全く参考にならないかもしれません。そして、読者のよい子のみんなには、『毒』でしかないかもしれません。
 私は、物語や小説を書くのが下手なのかもしれません。つまり、才能がないのかもしれません。おかげで、創作物を他人に盗まれたり持っていかれることはありませんでした。(それが、普通なのかもしれませんが…。)そこで、お金のためや文学賞のためではなくて、別の目的で小説を書いて、それを利用することを思いついたわけです。10代の頃は、ビデオ録画をするための機器(つまり、ビデオデッキ等)を持っていなかったので、テレビで観た物語のストーリーが気に入ると、それを文字にすることがありました。テレビの映像を文章に直して(つまり、文章化して)、ビデオ録画の代わりに記録をするものでした。その目的のために、小説の形式を利用していました。その記録が、ただの写実では面白くないし、感動が伝わりにくいため、レトリックでいろいろと味付けしていたのだと思われます。
 さて、『不思議な幻燈館』に話を戻すと、私は、そのドラマの放送回について、よく憶えていません。(その放送回のあらすじは、小説化して記録しておいた文章に基づくものです。)ネットのウィキペディアを利用して調べたところ、その放送回のサブ・タイトルは第18幕『失われた存在証明』のようでした。けれども、誰が出演していたのか、全く思い出せないのです。ネット上でも映像を観ることができないので、確証をとることができませんでした。『不思議な幻燈館』という番組自体が、「幻のドラマ」と言われています。私がテレビで観たその放送回は、さしずめ「幻の放送回」と言えるかもしれません。
 そこで、私としては、その「幻の放送回」を小説の形式にまとめたものをここで紹介したいと思います。その冒頭で『風と共に去りぬ』の小説にからめて述べた部分、および、登場人物たちの名字と名前は、私が創作した部分です。けれども、物語の骨子は、ほぼ『不思議な幻燈館』をテレビで観たとおりを文章にしています。表現上、映像を小説化するために、私なりの創作がされている部分もありますが、大筋はその放送回の内容に従って記述しています。



   『奪われた時間』  ― 『不思議な幻燈館』からの一幕 ―


 たしか学生の頃だったか、『風と共に去りぬ』という長編小説の文庫本5冊を一気に読んだことがあったと思う。主人公の女性が波乱の人生を生き抜いたその物語を、私は一月で読破した。本の上の出来事とはいえ、一人の女性の人生がそんなにも速く過ぎてしまうなんて、当時は、不思議なことのように思えたものである。そんなに速読でもなかったはずなのに、次から次へと起こる事件に興味を覚えて、あれよあれよという間に、巻末にたどりついてしまった。今になってみると、あの頃がなつかしい。と言うのは、あの頃には考えてもみなかったことが、現実に私の身に起こってしまったからである。
 週末のある朝、私はいつもの通り朝の6時半に目が覚める予定だった。前夜、いつものように目覚まし時計を6時半にセットして、そのままベットに横たわった。ところが、目覚まし時計は鳴らなかった。眠気まなこでその時計を見ると、9時である。今日は金曜日のはずだから完全に遅刻だ。慌てて支度をして、会社に向かった。
 電車の外を流れてゆく風景は、いつもと変わりなかった。あえて変わった事実と言えば、入社以来一度も遅刻をしたことのない自分が、時間に対しては几帳面(きちょうめん)だと思っていた自分が、初めて寝坊をしてしまったことである。
 会社のビルの入り口にたどりついて、回転ドアに手をかけた。つい力が入って、ドアを強く押したのであるが、何か引っかかっていて、動かない。力まかせにドアをガタガタさせていると、警備員さんが飛んできて、私に話しかけてきた。
 「今日は土曜日で休みだから、ここから中へは入れませんよ。」私は思わず「土曜日?」と聞き返した。「今日は土曜日なんですか。」すると、警備員さんは、けげんそうに私を見て「ええ、土曜日ですけど。」と答えた。
 私はそのまま帰宅して、一人頬杖(ほおづえ)をついてから、「ちょっと勘違いしただけだ。」とつぶやいた。週末だし、ちょっと疲れただけなのだ、と自分に言い聞かせた。今日一日ゆっくりしていれば、こんなひどい物忘れなどしなくなるに違いない。
 と、その時、突然、家の中の電話が鳴りだした。受話器をとり声を聞くなり、相手が高山さんだということがすぐに解(わか)った。「河野さん。ぼくです。高山です。」という男性の声がさわやかに響いた。高山さんは、親友の久子の紹介により、最近私がつきあい始めた人で、安心感のある男性だった。「河野さん。実は、明日の日曜日、ゴルフに誘いたいのだけれど、いいですか。」私は、迷わず承諾の意を伝えた。
 その夜、私はいつものように目覚まし時計をセットした。高山さんは、T駅の改札口で午前9時に待っている、と言っていた。私は7時半に目覚まし時計を合わせた。そして、何の心配もなく、私は即座に眠りに入っていった。
 その朝、時計は、目覚めの時刻をはっきりと知らせてくれた。私は、気分爽快で、昨日の疲れが嘘のようだった。身支度を済ませ、その日のために揃えておいたゴルフ用具入れを背負って、良く晴れわたった空を見上げて、駅への道を歩きだした。ところがである。駅に近づくにつれて、回りの様子が普段の日曜日と違ってやけに騒々しいことに気がついた。車の往来も、普段の日曜日のこの時間にしては多すぎる。人も車もせわしなくて、まるで普段の平日のような町の様子なのだ。
 駅の改札口からは、どっと人が流れ出して、通勤ラッシュであることは間違いなく、今日が日曜日でないことは明らかだった。私は気落ちして家に帰り、会社へ欠勤の電話をかけた。「河野君が月曜病とは珍しい。」と電話の向こうから、上司の声が漏(も)れてきた。電話を切った後、私は思った。じゃあ、私は昨日の高山さんのゴルフの誘いをすっぽかして、丸一日眠り続けてしまったのだろうか、きっと土曜日の疲れが思いのほかひどくて、寝過ごしてしまったに違いない。でも、時計のベルの鳴るのが聞こえなかったのはなぜなのか。そこで時計をよく調べてみたが、故障している様子はない。静まりかえった部屋の中で、時計はせわしなく時を刻んでいる。7時半に目覚ましは鳴ったのである。故障のはずはなかった。
 夜になり、暗い部屋の中で闇をみつめていると、いきなり電話が鳴りだした。「河野さん。昨日のゴルフは、本当に楽しかったですよ。」と、受話器を取った手の向こう側から、高山さんの声が聞こえた。「えっ。」と私は反射的に声を発した。それにかまわず高山さんは言葉を続けた。「昨日のあなたの振る舞いで、あなたの気持ちがよくわかりました。もしよろしければ、今後おつきあいしてくれませんか。」「何のことでしょうか。」「日曜日の夜、あなたははっきりと言われましたよね。あのことは嘘だったのですか。」「あのー、申し訳ありませんが、そのことについては後日、私の方から改めてお電話いたします。すみません。」そうことわって、私は電話を切った。
 そして、考えた。昨日の日曜日、高山さんと出かけたのは本当に自分なのだろうか、高山さんがまさか別の人を私と見間違えるはずはない。けれど、私にはきのう高山さんに会った記憶もなければ、昨日一日、何をしていたかさえ覚えていないのである。
 次の日から、私はいつも通りに出社した。が、特に変わった事は起こらなかった。そのまま、いつもの生活に戻ったかのように思えた。いつもと変わったことといえば、私の机の中から、高山さんと二人でゴルフ場で撮ったらしい写真が一枚出てきたことだけだった。しかも、高山さんからその写真を送ってもらったらしいのであるが、それらがいつのことだったのか私には全く記憶がなかった。
 そんなある時、昼休みに、同僚三人とふざけあっているところに上司の課長がやってきた。
「河野君。午後一番で、大事な会議があることをこの前君に伝えたと思うが、例の書類はそろえてあるだろうね。」私は、課長から金曜日の午前中までにその会議に必要な書類をワープロで清書しておくようにと頼まれていた。たしか今日は、まだ水曜日のはずである。「課長、あさっての午前中までと伺っております。」課長は急に青ざめて、怒った口調で言葉を返した。「困るなあ。まだできてないなんて。金曜日の午前中と言ったはずじゃないか。」まわりに確認したところ、今日は確かに金曜日だった。「すみません。何とかしますから。」と課長にことわって、私は自分の机にやりかけのはずの書類を取りに行った。
 ところが、机の引き出しからその書類を引き出して、私は自分の目を疑った。心配の種であるはずのその書類は、清書が完全に終わっていた。誰が一体いつの間に仕上げてくれたのか。そのことを考えさせるいとまもなく、私の背後につかつかと歩み寄ってきた課長は、私よりも驚いたかのような声を発して、まわりの人たちを驚かせた。「なんだ、できているじゃないか。早速こっちによこしたまえ。大事な会議だし、急ぐんだから。」と言うなり、私からその書類をひったくった。
 私は、かつて、このようなミスをおかしたことは一度もなかった。与えられた仕事は、決められた期日までには必ず仕上げ、それを上司に渡し忘れるなどということは一度もなかったはずである。高山さんとのことが気になって、つい仕事がおろそかになったのかもしれない。そう考えて、その夜、私は高山さんに電話をかけた。
 ところが、電話の向こうからは聞きなれない不潔な感じのする声が聞こえてきた。「良子。どうしたんだ。俺は、この前もおまえに電話をかけたんだぜ。」私は思わずあたふたして聞き返した。「良子…って、…あたしのことですか。…失礼ですが、高山さんのお宅ではないのでしょうか。」「今時分に、『高山さん』はないだろう。浩二、浩二って、言ってたじゃないか。」高山さんの名前が浩二であること位は知っていた。けれど、私は高山さんを『浩二』などと呼びつけにしたことなど一度もなかった。ましてや、高山さんから『良子』などと呼びつけにされたことなど決してなかった。
 「この前のことですが、私は高山さんに特別な関係があるわけではないので、…特に交際したいとは思っておりません。…高山さんが、別の人を私と勘違いされたのだと思われます。」この言葉が終わるや否や、異常な高笑いが受話器から聞こえてきた。「じゃあ、この前の一夜のことは、遊びだったというわけか。」「一夜?」と私は聞き返した。「もう忘れたのか。ならば、思い出させてやろうか。俺の誘いで、俺の部屋に泊まったじゃないか。酔ったふりなんかしやがって。だが、おまえのそのあとの大胆さから見て、本当に楽しんでいやがったと、おれは痛感したよ。今ごろになって、そんな他人行儀は通じないと思うよ。」
 私の脳裏に一瞬、既成事実という言葉がよぎった。が、これほど信じられない事実があっていいものだろうか、と反駁(はんばく)せざるをえなかった。「あなたの言っていることがわかりません。あの写真だって何かのトリックなんだわ。」「写真って…、昔ゴルフ場で撮った写真のことだな。そうだ。あれがいい証拠じゃないか。おれが関係を結んだ女性はただ一人。あの写真におれと一緒に写っている女性ただ一人なのだ。」私は、気分が悪くなって、そのまま電話をガチャンと切った。
 次の日、私は大学病院の精神科へ行って、診察をしてもらった。今までに経験した奇妙なできごとを、私は担当医に話した。「まるで時間がスキップしたかのように、その間に起きたことは全く覚えていないのです。まるでもう一人、別の自分がいるようで…、そう、その別の自分が私の知らないうちに勝手なことをしているのです。」
 私がそれまでの一部始終を話すと、担当医は少し考えてから、次のようなアドバイスを私に与えた。
「おそらく過労からきた精神的なものでしょう。記憶力が著しく減退して、物忘れの状態がかなりひどいようですね。まる一日の記憶がないのは、普通の人でも時々起こることですから、まあ、あまり気になさらない方が良いと思います。この手の障害の場合、気にするとかえって病状が進むものなのです。一番の治療法は、過去のことをあまり気にかけないで、普通の日常生活を送ることです。」私は、いちおう納得して病院をあとにしたが、一抹の不安が消えることはなかった。
 その夜、なにげなく自分のベットに横たわり、淡い水色の壁をながめているうちに、いつものように眠りについた。なのに、何かが変であった。まだ夜中であることは、夢うつつの状態にいてもわかった。けれども、いつもとは何かが違う。感覚が鋭くなっているせいであろうか、いままで嗅(か)いだこともないような匂いが自分のそばでしている。目を細く開けると、そばの壁が赤みがかって見えた。よく見ると、それはピンク色である。部屋の家具の配置も、自分の部屋とは違う。匂いのする方向におそるおそる手を伸ばすと、そこには毛布にくるまった生き物が寝息を立てていた。毛布の下には、胸毛の荒々しい高山さんの裸体があった。
 私は一体、ここで何をしているのだろうか。何をしていたのだろうか、と考えてみたのだが、自分の部屋で眠りについてから後のことは、見た夢一つ思い出すことはできなかった。
 とりあえず、私はその場を抜け出す事にした。脱いだ記憶の無い自分の衣服を身につけて、何とか外へ出ることはできた。夜中ではあったが、外の様子はこれといって変わった様子はなかった。変わっているのは現在の私の置かれている立場だけのように思えた。こんな夜中に、私はなぜ街の暗い通りを走らなければならないのか。
 自分のアパートにたどりついて、自分の部屋のドアを開けようとしたが、鍵がかかっているのか、開けることが出来なかった。力任せにドアをたたいた。近所の人たちが2、3人けげんそうにドアを開いて私を見ていた。ついに中から鍵をはずす音がして、ねまき姿の見知らぬ夫婦が顔を出した。
 「あのー、ここは河野さんのお宅ではないのでしょうか。」私は、とっさに何か言わなければと思って言った。男性の方は、迷惑そうに目をこすって、あくびをした。すると、女性の方がたずねてきた。「部屋を間違えたのね。ここは3号館329号室ですよ。」「はい。たしかにここは、今の私が住んでいる3号館329号室のはずですが…」「でも、この近所には河野さんという人はいませんよ。」すると、男性の方が口をはさんできた。「そういえば、以前ここに河野さんという若い女性が住んでいたと、管理人さんが言ってたなあ。」私は、まさかと思って、329号室の表札を見た。そこには『波多野』と書かれていた。
 びっくりしてその場を立ち去った私は、ただちに公衆電話ボックスに飛び込んで、親友の久子に電話をかけた。久子の家はここから余り遠くはなかったが、家族の方に直接迷惑をかけたくなかったので、彼女だけを電話で呼び出すことにしたのである。「高山さんとうまくいかなくなったって、あなた一体どうしたの。」久子は、いきなり夜に親友の私から電話をかけられて、少々狼狽(ろうばい)気味であったが、私から事情を聞くなり、少しは今の私の苦境を理解したようだった。「あなたたち、この前同棲を始めたばかりで、もうトラブルを起こすなんて…。」「同棲ってどういうこと?」私は耳を疑った。「あなた、この前言ってたじゃないの。あなたはアパートを引き払って、高山さんの部屋へ…」十円を催促する公衆電話のブザー音によって、そのあとの言葉は消されてしまった。
 「とにかく、今から会いにいくから。いつものT字路で会うということでいいわよね。」私はその言葉を聞いて、ほっとして、電話ごしに見えない相手に頭を下げてうなずいた。
 私は、久子と例のT字路で会うために、それから東へ向かって歩いていた。早く久子に会って、納得のいく説明を聞きたかった。私が気づかぬうちに何が起きたのか、その説明が欲しかった。できれば久子の力を借りて、高山さんとの関係を清算したかった。高山さんを私に紹介したのは久子なのだし、きっと私のために力になってくれることを疑わなかった。
 気分は少し重たかったが、久子に会えば何とかなるという思いだけは変わらなかった。と、その時、私のまわりに異変が起こっていることに気がついた。私は確かにこの通りを東に向かって歩いていた。夜中とはいえ、見知っている通りで、道を間違えるはずはない。ところが、どういうわけか、私は、この通りを約束のT字路に向かって、いつしか東から西に歩いていたのである。
 T字路には、久子がすでに待っていた。自分ではそんなに待たせた感じではないのに、「遅い。」と久子から言われた。人の気配がないため、ここで立ち話をしても平気であった。
 「高山さんのことだけど…」私がそう切り出すや否や、「まだそんことを言っているの?」と不機嫌な顔をして久子は答えた。「今どき、高山さんとよりを戻そうなんて、あなた、一体どうかしているわ。」それを聞いて私は、おやっと思った。「それは違うわ。さっきの電話で言ったように、私は高山さんと別れたいの。」それを聞いて久子は首をかしげた。「別れるって…、あなた。一年前に高山さんときれいに別れたじゃないの。」私は、ある予感に背筋が凍る思いがした。
 「じゃあ、私は一体どこで生きているというの。ついさっき、あなたに高山さんの件で電話をしたばかりだと思っていたのに。」「あなた、この一年間のことを何も覚えていないのね。普段正常に見えたあなたにそんな記憶喪失の悩みがあるなんて、気がつかなかったわ。…まあ、いいわ。あなたが今暮らしているところへ連れて行ってあげるわ。」私は藁をもつかむ思いで、親友のその言葉に従った。
 私は、一度も入ったことのないアパートへと連れて行かれた。そのアパートの5階の一室のドアの前で、久子は呼び鈴のボタンを押した。少しして、水色の縦じまのパジャマ姿で眼鏡をかけた、ダサい姿のオヤジがドアをあけて、久子に挨拶した。
 「西野さん、いけませんよ。こんな夜中に奥さんを外に出して、一人歩きさせるなんて。変な人に連れて行かれても知りませんよ。」見ず知らずの中年のその男性は、恐縮して久子にお礼を述べた。表札には確かに『西野』と書かれていた。とすると、私は西野良子になっていることになる。
 私は、その男に手を引っ張られて、奥の部屋に引き入れられた。その畳敷きの部屋に入ると、そこには、小さな子どもが布団をかけて眠っていた。声を出しそうになった私を抑えて、男は低い声で話しかけてきた。
 「しーっ。今少し前にやっと眠ったところなんだ。おまえが急に外へ出て行ってしまったから、そのあと良明(よしあき)を寝かすのは大変だったんだぜ。」私はその言葉を聞くなり、もうどうでもいいやと、心の中で思った。見も知らない男と寝起きを共にして、腹を痛めた覚えもない子どもの面倒を見ているのが、今の私の姿なのだ。精神科の担当医が言っていたように、過去の記憶がないことを気にかけなければ、普通の人間として普通の生活を続けていかれるのだ。
 私はそう割り切って、新しい生活を始めた。幸い、昼夜を問わずに子どもの世話をして、表向きは普通の主婦と変わりがないように思えた。けれども、ほどなく子どもの成長がいやに速いことに気がついた。2、3日前に私がここに初めて来た時には、まだ1、2歳だと思っていたのに、今世話をしている目の前の男の子は、4、5歳に見えた。
 もしかして、と私は考えた。もしかして記憶のなくなる間隔が広がっているのかもしれない。もしかして時間の進み具合が加速しているのでは…。このままいくと、今度私の目の前に起こることは、そう、もしかして…。
 「母さん。」その声に当然のごとく私は振り向いた。良明という男の子は、すでに成人間近(まぢか)い若者になっていた。


(この物語は、フィクションであり、実在する人物の名称や行為とは一切かかわりありません。
 この物語は、テレビ朝日系列でかつて放映されたはずの『不思議な幻燈館』のミステリーの一話分を、テレビドラマの映像から小説化したものです。)