『野菊の墓』と私の現実

 今回は、まるで大学の文学部の卒業論文のタイトルみたいですが、おそらく一生に一度しかないような、もしくは、50年に一度しかないような、人生の勉強になるような珍しい体験をしたので書いてみたいと思います。今日は朝から外は大雪で、路面も凍結して危険なため、身動きが取れません。この天気が、昨日や一昨日であったらば交通の便が悪くて、どうなっていただろうと思うとぞっとします。
 ところで、伊藤左千夫の『野菊の墓』の話を先日しましたが、この小説の読み方でもう一つ大切な点を書き忘れていました。今回の記事を読む上で重要であると判断しましたので、急きょ付け加えておきます。政夫さんは、民子さんをどう思っていたのかという点について、一般的に伝わりにくい点がありました。もちろんお互い好きな同士であり、しかも初恋かそれに近い初々しい感情を持っていたと思われます。が、二人はいとこ同士です。元々は他人同士でしかない恋人や夫婦の関係とは違うのです。同じ一本の血が流れてもいるわけで、たとえ深い交わりがなくてもわかり合える間柄だったのです。私の想像では、政夫さんにとって、民子さんは実の姉の代わりをしていたと思います。民子さんを姉と思って慕っていたのだと思います。つまり、政夫さんと民子さんは姉弟(きょうだい)の愛情で結ばれていたのです。ですから、民子さんがお嫁に行っても、他の男性のものになっても、たとえそれで子供が生まれたとしても、政夫さんの民子さんを思う気持ちは一生変わることがなかったのです。私は、浅はかながら、10代の頃にこの小説を初めて読んでから今日までの40年近くの長い間、全くそのことに気がつきませんでした。
 ところで、私は、一昨日、母の一番上のお兄さんの通夜のために、長野県長野市敦賀(「つるが」と読みます。長野駅のすぐ北)にある、敦賀法事センターへ行ってきました。その前夜に私は、東京の実家の母から電話で連絡をもらいました。私は母の代理で今回は行くことになりました。
 その伯父さんは長野県松代の母の実家からさほど離れていないところに住んでいらして、若い時に満蒙開拓団の一員として満州に行かれましたが、ソ連軍に捕らえられてシベリアに抑留されました。母の実家では、その伯父さんの安否がずっとわからず、そのすぐ下の弟さんが松代の実家の家督を継ぎました。その数年後にいきなりその伯父さんが帰ってきたので、みんなびっくりしたそうです。シベリアで亡くなった方も多かったそうですが、その伯父さんは奇跡的に生き残って、帰国できました。が、実家の家督はすでに弟さんが継ぐことに決まっていたので、松代町の知り合いの家に婿養子に行きました。
 一昨日の夜に私は、上田駅までバスの連絡が悪くて、上田駅長野駅間を新幹線を利用して10分で移動したものの、長野駅から長野電鉄権堂駅に着いた時には通夜が始まって1時間以上も遅れてしまいました。通夜に来られた方々の会食の席に通されましたが、運がいいことに、松代の家督を継いだ弟さん(一昨年前に亡くなられました。)の息子である、私の従兄が亡くなられた伯父さんの家族の方々を紹介してくれました。実は、その従兄の方は、昔から声と言葉遣いが諏訪出身の美川憲一さんにそっくりで、私の4歳年上で、偶然にも私と同じ大学の経営学部の出身で、日本髪のかつらの仕事をされています。そこで、私はその従兄の方に毎年欠かさず年賀状を出しています。ずっと前に、私の妹と同じ年齢の若い奥さんをもらいましたが、実子を授かれませんでした。決定はしていませんが、養子をもらう予定はあるようです。
 通夜の会食を終えたら私は上田へ帰る予定でした。ところが、横浜の伯父さん(私の母の兄)と和歌山の叔父さん(私の母の弟)に引き止められて、その法事センターの控え室を利用して一泊することになりました。私は、母の二人の兄弟とお酒を飲みながら、今の私の仕事のことを中心にいろいろと長い時間をかけて話し合うこととなりました。いろんなアドバイスもいただきました。
 途中眠って、また、話し合いを再開するという形で夜が明けました。法事センターで用意してくれた朝食を3人で食べてから、告別式に出席するための準備を控え室でしていると、今日出席する人たちが次々と訪れてきました。喪主の家族や親戚の方もいらっしゃいました。私の母の兄弟や、その代理の方も来られました。『長野の親戚』と私は呼んでいるのですが、長野県長野市周辺に在住の私の母方の兄弟姉妹やその子孫が来るというわけです。
 それで、一人の叔母さんが畳に座っている私の目の前で挨拶をしました。私と一緒にすでにいた長野の親戚の人たちは、その人が誰だかわかっていたので普通に挨拶していましたが、私一人だけはその人が誰だかわかりませんでした。本当に若くない小柄な女性だったのですが、顔にちょっと愛嬌があって(私の目には)こんなステキな感じの親戚の叔母さんが長野にいただろうかと思ったくらいです。それでつい、私は「どちらさまですか。」とその女性に訊いてしまいました。それでも返事がないので「どちらさまですか。」と私は二度も同じことを訊いてしまいました。
 すると、「N子の代わりに来た娘です。」とその叔母さんは私に答えました。その口ぶりは、私を一目見て私が誰だかわかっていると言いたげでした。私は本当にびっくりしました。その人に会っても、きっと心を動かさないだろうといつでも思い、その人と再会することをほんの少しも期待していなかったのです。
  実は、私の母のすぐ下にも妹がいて、N子というのは子供時代に私の母が一番仲の良かったその妹でした。長野県長野市の秋後(あきご)というところの兼業農家にお嫁に行った、私の叔母に当たる人です。その叔母には、二卵性双生児で二人の娘がいました。その二人は、私の生まれる3ヶ月前にこの世に生まれてきた、つまり、私と同い年のいとこでした。(姉がJ子で、妹がY子ということにしておきましょう。)今では二人ともお嫁に行って、子供もそれぞれいます。私は、子供の頃、その秋後の家に母に連れられていったことがあります。その時なぜか思ったのですが、この二人の女のいとこがお嫁に行ったら、私はこの家に養子にもらわれるかもしれない、と思いました。現実にはそうならず、Y子さんの三男がその家の養子になる予定です。
 そう言えば、30年くらい前に母と私がその家に行った時に、当時生きておられたY子さんの父親(K叔父さんとしておきます。)が、訪問して間もない私にY子さんの成人式や以前撮った写真を見せながらこんなことを言っていました。「過去の写真や記憶やイメージよりも、今の実物のY子の方がずっといいぜ。」と冗談ぽく言うのです。でも、私はその後すぐにY子さんに会っても、いとこのY子さんのことを特別に好きだとか思いませんでした。実は、若い頃のY子さんは私が好きなタイプではありませんでした。顔に愛嬌があって親戚じゅうの評判は悪くなかったのですが、私は他の若い男性のようにY子さんに気が向いたり、追いかけたりということはまったくありませんでした。若い頃の私は、この点に関して全く女性を見る目がありませんでした。と言うより、人間を見る目に重大な欠落がありました。
 人の姿とか顔と言ったものは年齢と共に変わってしまいます。しかし、人の性格や心の中には一生変わらないものがあるのです。若輩者の私には、それを見抜く力がありませんでした。一方、長野の親戚の方々は、表面的には見栄を張って口が悪くて、時にはひどいことも言うけれど、本当は人が良くって、心にも陰や腹黒さがない人たちばかりなのです。ですから、Y子さんの良さにちっとも気がつかなかった私のことを長年苦々しく思っていたようです。東京で真面目に会社勤めをしていた私のことも、都会で暮すよそよそしい他人と同じように、生き馬の目を抜くような冷たい、冷徹無残な性格の畜生であると悲しく思っていたようです。
 たまたま顔を合せても何とも思わないほど私の意識になかったY子さんと三十年ぶりに再会しました。それは偶然なのか、それとも誰かが仕組んだものなのか、などと私はその時考えました。しかし、それはどちらも当たっていませんでした。誰の差し金でもなく、神様が決めた運命だったのです。冠婚葬祭の場というのは、生きている人間に罪と罰を意識させるためにあるものです。毎日の生活の場に戻った時によりよく生きるために、婚礼でいろんな祝儀をしたり、葬式で訓示や説教をたまわったりします。実は、私はY子さんの結婚式に出席していません。私の家が、Y子さんの結婚式の招待状を受け取った時に出席を、家として断ったのです。ですから、私は初めて冠婚葬祭でY子さんと会ったのです。そして、K叔父さんの言っていたあのことが正しかったことを私は知りました。
(つづく)