『野菊の墓』と私の現実 (つづき)

 今回も、記事を読むための基礎知識として、わたせせいぞうさんの『ハートカクテル』から『2500年-タケルの愛』をまず紹介しておきます。この話は、異性が異性を愛することが本質的にはどういうことなのか、ということを教えてくれます。「愛は異性の瞳を見つめることから始まる。」とかの名文句も心にしみるですが、それは決して生殖や子孫繁栄や少子化対策のためではありません。言い過ぎかもしれませんが、人間社会がもっと良くなるためと言った方が当たっています。わけのわからぬ欲望や殺意や憎しみから、生きている人間は救われなければなりません。もっとも、私はモラルや宗教の話をするつもりはありません。「愛って何だろう。」と自問する主人公のタケルが、人を愛することができたその姿を少しでも多くの日本人に理解して欲しいのです。
 確かに、タケルと待ち合わせをしたその女性はウソをつきました。そして、ビーチで処理されて二度とタケルの目の前には現れませんでした。タケルは、その女性の残した映像を見て、涙を流しました。タケルと二度と会えなくなるのに、待ち合わせのウソをついたことをそのビデオで告白して、タケルに愛が生まれることを願っていたことが判明します。「なぜもっと愛する時間がないのだろう。」とタケルは言います。実際に人を愛した人は、誰でもそう言うそうです。
 そしてまた、なぜだか涙が次から次へとあふれて止まりません。普通だったら大事な約束を破られたら、怒りや憎しみの感情でいっぱいになるはずです。悔し泣きというのがあるかもしれません。でも、私はこの涙は心の底から静かにわいてくるようなものではないかと思います。例えばそれは、目頭が熱くなって、鼻をすするような涙ではないかと思います。
 したがって、愛することができるということは、異性と×××をすることでもなければ、結婚のプロポーズをすることでもなければ、相手といちゃいちゃすることでも、本当はないのです。一人で大きな障壁をよじ登って飛び越えるようなイメージで考えたほうがいいかもしれません。
 また、今回の告別式で誰かの鼻をすする音を聞いた時に、私の頭に浮かんだことはアメリカ映画の『恋におちて』(”Falling In Love”)のある一つの場面でした。それを今回の記事を読むための参考知識として前もって述べておきます。
 メリル・ストリープ演じる既婚の中年女性は、ニューヨークの病院に入院中の父親の世話をするために電車通いをしていました。ニューヨークの本屋さんで偶然出合ったロバート・デニーロ扮する妻子ある中年男性と、その通勤電車でまたもや偶然出会うことになります。二人は、何となく話をするだけで楽しい相手として、恋人ではなく友人として、つきあうようになります。ところが、その中年女性の父親が亡くなってしまい、二人は会う機会を失ってしまいます。
(個人用の携帯電話がない時代の話であり、お互いの配偶者には内緒だったことに注目してください。)
 葬列を組んだ車の中で、メリル・ストリープが”It's such a beautiful day, isn't it? I don't think I can remember such a beautiful day.”(「美しい日だこと。こんな素晴しい日は初めてだわ。」)と無表情でつぶやく様に言います。メリル・ストリープの抑えた演技がかえって、運命に打ちのめされてボケてしまったオバサンみたいな感じで、その運命をあざけるように言うところで私はつい目に涙をためて笑ってしまいました。そして、棺桶を納める墓前でお坊さんが説教を読み上げている間、彼女は嗚咽が止まりません。その涙と悲しみの本当の理由は、父親が亡くなったことよりも、アノ中年男性と二度と会えなくなってしまったことへの絶望だったのです。そのことは、この社会的で厳粛な場において誰にも言えないことでした。心配した旦那は、公然と認められた夫の愛情で妻を慰め落ち着かせようとしますが、彼女は夫の手や体が触れてくるのを払いのけようと狂気の形相を表すのでした。ずいぶん社会的には不謹慎な話と思われるかもしれませんが、この映画はフィクション(つまり、作り物)なので、大目に見ていただきたいと思います。
 さて、前置きが長くなりましたが、私の空想もしくは妄想の世界を交えて、前回の記事の続きをお話しましょう。美化して書いても仕方がないので事実を書きますが、Y子さんは年は51で、四歳年上の警察官にプロポーズされて結婚して、4人の男の子をもうけました。1番目は就職して社会人になりましたが、2番目は昨今の就職難で苦戦しているそうです。3番目は、今年高校受験で大変です。4番目はこれから中学生になるところです。Y子さんは、お姉さんのJ子さんと今でも仲が良くって、いろいろ助け合って生活しています。
 そのJ子さんというのは、子供が男女二人いますが、店からご指名が来るほどのカラオケ好きの酒飲みで、コワいオバサンみたいで、その意味で要注意人物だそうです。知っている人の話によると、J子さんをちょっとでも怒らしたり仲たがいするとひどい目に会うそうです。特に、J子さんの旦那やY子さんの旦那は、それが原因で妻の優しさから遠ざけられて寂しい思いをさせられることがあるそうです。(あくまでもウワサです。)私は子供の頃にJ子さんに会ったことがありますが、幸いにもかれこれ35年くらい会っていません。
 実際に告白されたことはないのですが、Y子さんが結婚する以前に、私をY子さんと会わせて、つきあえるような仲になるようにとひそかに周囲がしむけていたという見方がありました。私がそのような素振りをはっきり見せなかったために、それはご破算になったそうです。実は、Y子さんの初恋もしくはそれに近い相手は私だった、という不確かなウワサもあったそうです。ウワサが好きな長野県の親戚同士でひそかに、そのようなことがささやかれていました。
 Y子さんが、私や他のいとこの人に普通に好意を抱いていたことは事実です。また、黒田家の結婚式出席ボイコット事件に見られるように、理由不明の敵意や悪意にY子さんや長野の親戚の人たちが心を痛めていたことも事実だったと思います。
 敦賀法事センターにおける今回の法事では、告別式や葬儀が行われました。式場の着席は、母方の兄弟の順番で私とY子さんが隣同士になりました。同い年の人が側にいてくれると心強いものだと、私は思っていました。お坊さんのお経がまた例のごとく長いため、隣のY子さんが鼻をすする音をよく耳にしました。夫婦でもないのにY子さんにかまうと悪いと思ったので、私はそんなY子さんを気にしないふりをしてなるべく前を向いているようにしました。でも、式が一通り終わったら、「長かったね。」とY子さんの瞳を見てちょっと声をかけて笑いかけてみました。
 私が無言ですぐにその場を去ったら、過去のことを根に持って嫌われているんじゃないかとか、オバサンの匂いがして嫌がられているんじゃないかと、Y子さんに思われたらいけないと私は思いました。その心遣いを、私はどうしてもY子さんに示したく思いました。また、そんな優しい素振りを見てもらって、昔の若い私の無礼をチャラにして欲しいと思いました。
 これは絶対に妄想ですが、もしかしたら、Y子さんの側からすれば、私は初恋の人だったかもしれません。でも、現実には私と少ししか会う機会がなくて、いつも私が側にいてくれなくて寂しい思いをしてしまいました。警察官の旦那とのプロポーズを受けたのも、そんなどうしようもない寂しさからだったかもしれません。そんなつらい長い時間を過ごしてきた昔のことを、お経の最中につい思い出してしまったかもしれません。(もちろん、これは根もない葉もないウワサが本当だったという前提つきでの話です。失礼な話ですいません。)きっとそんな寂しい思いをしたのは、本当は私のほうでしたが、私は男なので人前で涙を流すことはできませんでした。
 そして、火葬場に行きました。その行き来のマイクロバスや火葬場の待合室では、長野県人によくあるパターンで、みんな気のいい同士でいろいろと身の上話やウワサを言い合ったりしていました。火葬が行われている間に、Y子さんがコーヒーを入れてくれると言うので、「お姉さん、お願いします。」と私は普通に言いました。周りの親戚の人たちは、一瞬静かになってそれを聞いていましたが、それで私とY子さんが、世間や人のウワサによくあるような変な異性関係ではなかったことを理解してくれたようでした。
 会食はY子さんと面と向かった席でしたが、会場の長いテーブルのど真ん中でした。特別な関係ではなかったので、別に二人だけで話すということはありませんでした。でも、会食が終わって別れ際に、また会いたいね程度にY子さんが私に言ってくれたんで、それでよかったのではないかと思いました。もちろんそれが約束としては破られてしまっても、もうお互いに若くないのだから、それを恨んではいけないと思いました。
 休憩室で式の準備が整うのを待っている時、今のY子さんのどこが良いのか、私なりに分析してみました。三十年前の若い頃に張りのあった卵型の顔は、その形が少し崩れ気味に見えました。その肌も今では艶をなくしていました。どう見ても、外見は私よりもずっと若くない。それはどういうことかと言いますと、警察官の旦那と男の子4人を相手に暮してきたために、心身ともに疲れてかなりダメージを負っている。双子のJ子さんが側にいるのが、せめてもの救いだったようです。しかし、男の子4人を産んで、育ててきた分の精神的・身体的な負荷は隠すこともできず、加齢として外見に表れてきていました。女性として、人間として枯れつつある姿に私には見えました。
 若い頃のY子さんは、私の恋愛対象でも結婚対象でもありませんでした。もしかして私は、Y子さんをいわゆる世間が異性を見る目では見ていなかったのかもしれません。ところが、今のY子さんみたいに、これまでの生活とその加齢のために心身ともにボロボロになった感じというのは、私に逆に安心感を与えてくれました。わたしもそうなのですが、たとえ外見が若く見えても、体の内部というものは老いのために遅かれ早かれボロボロになっていくものです。そうしたものに、夫婦の愛や、恋人との恋愛とは違うものを私は感じます。それは、今になって気づいた姉弟(きょうだい)愛のようなものか、人間愛のようなもののようです。あの世で会えるのではなく、生きているうちに一度でも会えたことは、すごく幸せなことだったのです。今のY子さんに対する私の気持ちはそれで十分だと思いました。
 私は、子育て中の同年代の人と会うことは滅多にありません。だから、同い年のいとこのY子さんにたまたま会って話を少し聞いたことはかなり勉強になりました。その4人のお子さんはいずれも障害がなく、元気で育っていらっしゃいます。警察官の旦那も、真面目に働いています。Y子さんもその旦那さんも、日本のために、この国のために、平凡ではあるけれども一生懸命頑張っています。こうした人たちが、少しでも不安のない、ちゃんとした世の中になって欲しいと私は願っています。だから、日本の企業の皆さん、もっとちゃんとした雇用を未来の日本人のために増やしてください!!