46年前にミタものに関して

 46年前、私は5歳でした。その頃の私は、幼稚園に通わされていてましたが、いつもぼーとしている少年でした。左胸に大きく貼り付けられた白い布の「くろだくにお」という文字を、その幼稚園の主任の先生に教えてもらって初めてやっと覚えた記憶があります。その時の私は、私自身の名前を言いにくい名前だと思いました。その頃の私の記憶は、頭の中で全てバラバラになっていて、たまにその幾つかをぼんやりと思い出せる程度でした。
 あの頃は、東京都文京区にあった後楽園遊園地へ日曜日に私の父がよく車で連れて行ってくれました。ジェットコースターやお化け屋敷は、父の好みに合わなかったらしく乗ったことも入ったこともありませんでした。回転するコーヒーカップに父と一緒に乗ったことはありました。また、乗り物券や入場券のいらない野外ステージを、父とよくベンチに座って見ていました。
 その日の後楽園遊園地の屋外ステージは、赤いブレザーを着た年配のおじさんが、ひざに男の子の人形を乗せていました。両目と口と首が動く男の子の人形が、ディズニーのミッキーマウスみたいな高い声を出して話し出すのを私は見ました。つまり、そのおじさんは腹話術師でした。幼い私にとっては、それは腹話術というよりも魔術か手品のように見えました。現在の超スーパー腹話術師のいっこく堂さんと比較すると、かなり基本的でシンプルな腹話術の芸でしたが、(変な言い方ですが)人形を抱えているおじさんの熱意がその人形に血を通わせているように見えました。それくらい真面目に、そのおじさんは人前で腹話術の芸を見せているのだ、ということが観客のこちらに伝わってきました。ただし、ベンチに座ってステージを見ている観客はいつも少なくて、まばらでした。
 その頃(1966年)はまだ『ゲゲゲの鬼太郎ショー』も『ゴレンジャー・ショー』も『ウルトラマンショー』も『仮面ライダーショー』も無かった時代です。テレビでは、『シャボン玉ホリデー』はやっていましたが、『『8時だョ!全員集合』はまだやっていませんでした。しかし、私はその後楽園遊園地の屋外ステージでドリフターズを見たことがありました。もちろん、父と二人で後楽園遊園地の入場券を買っただけで、生のドリフターズを見ることができました。もっとも、当時はまだ、彼らは世間からそれほど注目されていませんでした。
 当時彼らは、『いかりや長介ザ・ドリフターズ』と呼ばれていて、コミック・バンドとしてステージに立っていました。このネーミングに私はちょっと違和感がありました。いかりや長介さんがリーダーで威張っているから、グループ名に彼の名前を入れているように思えたからです。当時の私は、このバンド・グループには前から歴史があって、いかりや長介さんがそのうち外から加入して、さらにそのうち前のリーダーのあとを継いだということを全く知りませんでした。このバンド・グループは、ドリフターズ(漂流者や流れ者)の名の通り、メンバーが入れ替わり立ち代りして、今日(こんにち)の『ザ・ドリフターズ』のメンバー構成に近づいてきたのです。その功績は、リーダーのいかりや長介さんに負うところが多かったそうです。
 当時5歳の私に、そんなドリフターズの大人の努力と苦労がわかるはずもありませんでした。ですから、彼らのステージの演奏を見て、リーダーとほかのメンバーが何であんなにうまくいかないのだろうと思いました。彼らの芸は、必ず誰かが演奏をしくじって、上手く演奏が進まないところに笑いがあったのですが、私も私の父も真面目にそれを見学していました。
 すると、ドラム担当の加藤茶さんがリーダーのスキを見て、スタンドマイクの前につかつかと進み出ました。そして、「やったぜ、カトちゃん。」とか「カトちゃん、ぺっ。」とかのギャグをやって、観ている人の笑いをとりました。スタンドマイクの近くに立っていたリーダーのいかりやさんは不意をつかれますが、すぐに気がついて加藤茶さんの後頭部を手でぶちました。お客さんの前でなにやっているんだ、というふうに加藤茶さんを叱るわけです。加藤茶さんは、しぶしぶ彼の持ち場のドラムの席に戻りました。
 この一連の成り行きを見て、このグループの本当の主役もしくはこのステージ(舞台)の本当の主人公は、リーダーのいかりや長介さんではなくて加藤茶さんではないかと、観客の誰もが感じるようになっていたと思います。ですから、メンバーの誰かが演奏をしくじってリーダーに叱られたとしても、メンバーの方が悪いとは、観客の誰もが思わなかったのです。それよりも、ドリフターズのメンバーをまとめきれないで、お客の前であたふたしてしまうグループ・リーダーの姿を、観客はみんなであざ笑っていました。そのきっかけを作ってムード・メイカー的な役割をしていたのが、加藤茶さんでした。従って、観衆にとっては加藤茶さんの人気が跳び抜けて高かったのです。
 今私は『観衆』と書きましたが、当時の彼らの観客は、ベンチでまばらに座っていた、少数の遊園地の入場者でした。それに、彼らが演じていたものは、私のような5歳の子供にも簡単にわかるようなものではなくて、明らかに大人の考えたギャグであり笑いでした。それでも、溝が壊れたレコード盤をかけているみたいに、同じ演奏フレーズを繰り返して止まらなくなったりするところには、今でも忘れることのできないインパクトがありました。そこには、コミック・バンドの下積みの意地と努力と根性を感じさせるものがありました。また、エレクトーン担当の荒井注さんの演奏が特に下手に思われました。後世のうわさによると、名手がわざと下手に演じていたのではなかったのだそうです。けれども、お客さんはコミック・バンドを見ていたわけですから、荒井注さんの本当の演奏の実力を知ることはそれほど重要ではなかったと思われます。
 ところで、10歳の私は、或る日の日記に、当時すでにテレビで不動の人気を誇っていたザ・ドリフターズのことを書きました。その日記は、当時の担任の先生から毎日課せられていた宿題のようなものでした。提出するノートに1日最低1ページは、今日の出来事を日記として書かなくてはなりませんでした。ページ一杯に書く必要はありませんでしたが、2、3行しか書いていないと先生に注意されました。ページの下のほうには、赤いボールペンで先生がコメントを書いてくれました。
 私がその日記ノートに書いた内容は、大体、次のようなことでした。テレビの『8時だョ!全員集合』で人気が爆発していたザ・ドリフターズを私は5歳の頃に、後楽園遊園地の屋外ステージで見たことがありました。テレビの番組が高視聴率になって、今では人気者になったザ・ドリフターズも、以前は特別な入場料を払わなくても観ることができました。観客のまばらな屋外ステージでコミック・バンドをやっていた下積み時代があったからこそ、今の彼らの人気があると言えます。私はそれを知って勉強になりました、などと2ページもかけて長々と日記に書きました。
 すると、担任の先生から返ってきた日記の、そのことを書いたページの下の欄に赤いボールペンでこんなふうに書かれていました。「黒田君は、人気者になる前のドリフターズを知っているのですね。どんな有名人でも、下積み時代があってこそ今の成功があるのだという点は、鋭い指摘だと思いました。勉強になって、とても良かったですね。」と書かれていました。
 このように多少の無知や誤解があったものの、私は5歳の頃にザ・ドリフターズのステージ(舞台)を偶然観ることができました。あれから46年も時間が経ってしまいました。けれども、こうして記憶をたどりながら書いてみると、新たに見い出す事柄も少なくありません。そういう意味では、勉強になったと言えます。