君は『午前零時の鐘』を聴いたことがあるか?

 先日私はたまたまテレビで『徹子の部屋』を観ていました。古希を迎えた山本リンダさんがゲストでした。それをテレビで観て『どうにも止まらない』を歌われていた山本リンダさんよりも、私が驚いたことは、「作詞家 阿久悠 作曲家 都倉俊一」という文字テロップでした。その都倉俊一さんは、現在の文化庁長官です。つまり、現在の文化庁長官が過去に作曲した流行歌が、現在のテレビのオン・エアで山本リンダさんに歌唱されていました。つい最近において台湾のIT相のことが話題になって、国内の日本人は大したことないという空気がかなりあります。その空気は、日本国民のあらゆる心配や不安となって、今も少しも変わりません。でも、時々そんな小さなことを見つけては、「日本人も捨てたもんじゃないな。」などと私は感じています。私は、この国のリーダーでもエリートでもないので、好きに書かせていただけるといいと思っております。
 かつて日本著作権協会の会長さんをつとめられていて、現在は文化庁長官になられていらっしゃる都倉俊一さんは、私の若い頃は、例えばピンクレディーの歌唱する流行歌などの作曲家として知られていました。また、「あなたのぉ、こころにぃ、ゆめがーあーるーならぁ。」という中山千夏さんの歌唱する流行歌の作曲でも有名で広く知られていました。
 以前私は、年末にテレビで日本レコード大賞を観ていました。麻生よう子さんが『逃避行』という歌を歌唱して、最優秀新人賞を獲得しました。その曲を聴いているうちに、何か目に見えない美しいものに気がつきました。その気づきにくい何かにあっけにとられているうちに、その年を越しました。年が明けて1月3日に近所のレコード屋さんに、その曲のシングルレコード(300円くらい)が売ってないかと見に行きました。しかし、その曲のレコードはありませんでした。その代わりに、『午前零時の鐘』という歌をはじめとする4曲が入ったEPレコード(500円か600円くらい)がありました。その『午前零時の鐘』という歌を私は一度も聴いたことがありませんでしたが、テレビで『逃避行』を歌唱していたのと同じ麻生よう子さんの曲だということを確認して、そのレコードを買いました。そして、自宅のレコードプレーヤーで聴いてみました。「計算通りにはー、愛は行ーかーなーいーわー。」というキャッチな歌詞が印象的な曲でした。その作詞は、千家和也さんでした。そして、その作曲は都倉俊一さんでした。
 さぁて皆様、(「思い出せねえぞ!」と文句が出そうですが)ここで思い出していただきたいことがあります。山口百恵さんの初期の楽曲です。麻生よう子さんの『逃避行』や『午前零時の鐘』の作詞家・作曲家は、山口百恵さんの初期の楽曲の作詞家・作曲家と全く同じだったのです。「これは一体どういうことなのか?」と、私はああだこうだと考えてみました。その結論は、次のとおりです。
 確かに、作詞家の千家和也さんは、山口百恵さんの初期の楽曲で、内容のきわどい歌詞を書きました。ところが、その作曲をした都倉俊一さんは、きれいなメロディーを付けて、その歌が下品にならなかった。そのようなメロディーは一般的に「なじみやすい。」と評されていますが、私は少し違う感想を持っています。都倉俊一さんの創作したメロディーが、常に美しくて、品があったために、たとえその歌詞がどんなに品が悪くても、聴く側は拒絶反応を起こさなかったのです。一般に、大衆受けする流行歌は、品が悪くなりがちでした。しかし、職業作曲家・都倉俊一さんの音楽感覚は、全然違うと思いました。そのことに、私は、麻生よう子さんの『逃避行』や『午前零時の鐘』を聴いて初めて気がついたのです。
 そこで、私は、麻生よう子さんの『午前零時の鐘』の鑑賞を皆様にお勧めしたいと思います。『逃避行』の歌詞内容も、ダメ男を切り捨てる女性の心境を描いていますが、『午前零時の鐘』の歌詞内容のほうが強烈なので、そちらをおススメいたします。大衆向けの流行歌であるにもかかわらず、「道は、じーぶんのぉこーの手ーで、えーらぁびぃたーいー。」という都倉俊一さんのメロディーが一番美しくて上品で、私は大好きです。あの頃私が近所のレコード屋さんで買ったEPレコードは、残念ながらどこかへ行ってしまいました。その代わりに、YouTubeなんかで見つけた動画を、最近の私は鑑賞していました。
 そのYouTube動画についてですが、ちょっとだけ注意が必要です。何らかの意図があるらしくて、その曲の内容とは関係のない水着女性の映像が付いています。私は目をつぶって、その動画を視聴していました。すると、作曲家・都倉俊一さんの作ったメロディーの美しさに改めて、感心させられました。おそらく、現代で活躍している音楽専門家やミュージシャンがそれを聴いたならば、嫉妬に狂ってしまうほどの、旋律の美しさと品の良さだと思います。あの水着女性の映像は、そういう所からくる妬(ねた)み嫉(そね)み・いわれのない酷評や批判から、この曲の美しさを守るためのカモフラージュなのかもしれません。(注・そのような嫉妬や悪意は、結局アートをつぶしてしまうものです。一般大衆は、普段それを意識することはないのかもしれませんし、いつの時代にもあることですが、それだけに一層、そのような姿を見せない匿名的な、嫉妬や悪意には気持ち悪さを感じます。一応ここで、そのことを注記しておきます。)