私のプロフィール 紋次郎とのかかわり

 私が小学校高学年の頃、同級生の間で当時夜のテレビで放映していた『木枯し紋次郎』が流行っていました。中村敦夫さん扮する紋次郎が必ず口にするセリフ「あっしには、かかわりのないことで」(だったと思いますが、正しい記憶ではないかもしれませんが)は、当時誰もが知っている文句でした。土曜日の夜遅く10時半から放送していたフジテレビの大人向けのドラマだったので、子供は皆知らないのが普通のはずでした。『木枯し紋次郎』がテレビでやっていた時間は、普通の良い子は寝ている時間だったからです。(でも、最近は夜の10時から放送していた『家政婦のミタ』の「承知しました。」というセリフを多くの小学生が知っているようです。その事実から考えてみると、当時『木枯し紋次郎』やそのセリフを小学生が知っていたのは、それほど特殊なことではなかったのかもしれません。)事実、私は同級生の友達がいろいろと教えてくれるまで、『木枯し紋次郎』のことを何も知りませんでした。
 「木枯し紋次郎って、すごいんだよ。」「ボロボロの三度笠を頭にかぶっていて、長いマントもすり切れていて、長いドス(刀)を持っているんだよ。」「すごく強くて、どんな悪いやつも、その長い刀で斬っちゃうんだよ。」「口に飛びぬけて長い爪楊枝をいつもくわえていて、プッと口から飛ばすと、とんでもない所にそれが刺さるんだよ。」などなど、私は友人から驚くべき情報を受け取りました。幼い私は、『てなもんや三度笠』や『赤影』はテレビで見ていましたが、特に時代劇が好きなわけではありませんでした。が、友人の評判を聞いて、是非とも『木枯し紋次郎』を見たいと思いました。そこで、夜遅くまで起きていてその番組を見たいと、両親に頼みました。ところが、「子供はそんなに遅くまで起きていてはいけない。」と両親から言われました。「だってクラスのみんなは『木枯し紋次郎』を見ているんだよ。みんなの話の話題について行けなくなっちゃうよ。」と私は言いわけをして、やっと両親の承諾を受けて、一話だけという約束でその番組を見てよいということになりました。
 それで見たのが第十話『土煙に絵馬が舞う』でした。過去に何かあって頭がおかしくなった女の人が扇子を持って出てきたドラマでした。中村敦夫さんが怪我からドラマに復帰した第一作目で、紋次郎のセリフや行動パターンの特徴が一通り拝見できた回でした。私の両親は私と一緒にテレビを見て、ちょっと安堵したかに見えました。特に私の父は、番組が終わった後で私に咄嗟(とっさに)に一言こう言いました。「これでいいだろ?」
 実は、私の父はむっつりスケベでした。『木枯し紋次郎』を見たいと言った私に対して、一瞬顔をしかめて「どういうことだ?」と言いたそうでした。と言うのは、『木枯し紋次郎』という番組は、周知のとおり、夜遅くにやっていた大人向けの時代劇であり、そうした大人の番組のお約束事として、また、夜の番組の視聴率獲得の方法として、若い女性を乱暴するシーン、および、それがあったと想像させるシーンが時々ありました。私の父は真面目なカタブツでしたから、それを知りつつ自らはこの番組を毎週見ていたものの、子供には悪影響を及ぼすから絶対見せてはいけないと考えていました。しかしながら、当時は普通の良い子であった私が、そうしたシーンを見ても理解できなかったのも事実だったと思います。悪い男に『てごめ』にされた若い女性が、命を落としたり気が狂ったり泣きわめいたりしても、小学生の私にはどういうことだか全くわからなかったはずです。
 それよりも、小学生の私は、テレビを通して見た紋次郎の言動に強く惹かれました。番組の終わり近くで、木枯し紋次郎は口にくわえていた長い爪楊枝をついに吹き放ちました。それが、頭のおかしくなった女性の投げ上げた扇子に突き刺さりました。すると、それはそのまま遠くのお堂の絵馬に命中して、その衝撃で絵馬に隠されたお金がじゃらじゃらと落ちてきました。それと同時に、紋次郎が口から吹いて飛ばしたその長い楊枝が、扇子と一緒にその絵馬に突き刺さっていました。何でそうなるのか、もちろん小学生の私にわかるはずがありません。それが映像のトリックであると考える前に、私はあっけにとられてしまいました。道理で、学校で割り箸を削って作った長い楊枝を口から飛ばす友人が何人もいたわけです。(彼らは誰一人として、紋次郎のようにその楊枝を口から飛ばすことに成功したことがありませんでした。)
 それに、紋次郎の身なり(いでたち)はどう見ても、従来の日本の時代劇風の股旅スタイルとは違うように私には思えました。例えばそれは、クリント・イーストウッド主演の『荒野の用心棒』や『夕陽のガンマン』などのマカロニ・ウェスタンに出てくるような人物の身なり(いでたち)に何となく似ているような気がしました。また、登場人物のキャラクターも(言い方は乱暴かもしれませんが)、悪どく汚い手下や子分のやり口などは、マカロニ・ウェスタンの映画で見たのと同じ感じがしました。紋次郎の振り回す長い刀(ドス)の殺陣なども、大人に十分賞賛されるほどのリアルさがありました。そしてまた、この番組の主題歌『だれかが風の中で』にしても、上条恒彦さんの歌唱力やギターの演奏が、日本の伝統的な時代劇の音楽とは違う、ポップな感じの、マカロニ・ウェスタン風の音楽に近い感じがしました。つまり、この『木枯し紋次郎』という番組は、日本の時代劇でありながら、マカロニ・ウェスタンの映画のような斬新さのあったテレビドラマでもあったと言えます。
 私は大人になってから、『木枯し紋次郎』のビデオソフトのいくつかを見たり、ケーブルテレビの時代劇チャンネルでいくつか見たりしました。そして、小学生の頃になぜ紋次郎に惹かれたのか、その理由のいくつかがわかりました。例えば、町人や農民のお爺さんや若い娘さんなどが、やくざや悪い人間にからまれていたとします。紋次郎は、目の前でそういう弱い立場の人間が助けを求めても、「あっしには、かかわりのないことで」と言って、すぐには助けてくれません。まずは面倒にかかわりたくないと考える所が、かっこいいのです。私は道徳上どうだとか言っているのではありません。紋次郎は、ある意味、渡世の仁義(ルール)に従って、お爺さんや若い娘をあえて助けなかったわけです。その人間のリアルさやニヒルさに、このドラマを見る人は興味を引かれるのだと思います。(しかし、結局は面倒なことにかかわってしまうのですが…。)
 また、このドラマの魅力は決闘のシーンにあると言えます。紋次郎の殺陣のリアルさに、すでに言及しましたが、例えば第三話における、原田芳雄さん扮するやくざの親分との決闘シーンを考えてみましょう。原田芳雄さん扮するやくざの親分は、相当腕が立つとみえて、紋次郎と戦う前に若い娘をてごめにしたりはしません。若い娘に乱暴するような下っ端の子分は、紋次郎にあっけなく斬られてしまいますが、原田芳雄さんの役は紋次郎と互角に斬りあって死闘をくりひろげます。どちらが相手に斬られてもおかしくないくらいの緊迫した状況になります。辛うじて、紋次郎が勝って生き残るのですが、テレビを見ている側としては、手に汗握って最後にホッとするという感じでした。
 私は最近テレビで劇場用アニメ映画の『ワンピース』で海賊同士の決闘シーンを見ましたが、このような紋次郎とやくざの親分との決闘シーンと同じものを感じてとてもびっくりしました。時代は変わっても、視聴者の心を熱くするものは変わらないのだなと思いました。
 蛇足ですが、「あっしには、かかわりのないことで」と木枯し紋次郎のように私が言ってみたいことを一つ付け加えておこうと思います。私は、生まれてこのかたバレンタインデーに誰かからチョコレートなどをもらったことが一度もありません。会社に勤めて以降も、義理チョコさえもらったことがありません。10代20代の頃の私はそのことを寂しく思っていました。けれども、年をとるにつれてそれも天命だと思うようになり、老い先それほど長くない(あと50年以上どう考えても生きていないだろう)と思っています。ですから、バレンタインデーは、あっしには、かかわりのないことで、と言いたいわけです。