ある町工場の発想

 私の実家の周辺は昔(戦後の昭和30年代から50年代)、小さな町工場を持つ中小企業(もしくは、零細企業)が沢山ありました。私の実家自体、アルミ溶接をする小さな町工場でした。しかし、世の中の景気が悪くなるにつれて、廃業もしくは倒産してなくなってしまう町工場が多くなりました。私の実家の周辺は準工業地帯でしたが、現在ではショッピングセンターと高層マンションの多くなった住宅地とほぼ変わらなくなりました。
 私の父は、手作業では困難なアルミ溶接の職人級の腕を持っていて(営業が下手なため儲けるのが下手でしたが)、昭和60年代まで現役で頑張っていました。しかし、スポット溶接ロボットの質より量の仕事ぶりに負けて、さらにこの種の仕事と工場が生き残りのために中国へ移ってしまったために、仕事が減って、体調を崩すと同時に廃業せざるおえませんでした。若い頃からの仕事の無理がたたって、年金をもらう前に胆のうガンで亡くなってしまいました。日本経済の高度成長のために頑張って働いてきたのに、仕事と生活はいっこうに楽にならず、無念だったと思います。
 ところで、私の実家の近所に、そんな現在でも、椅子だけを作っている小さな町工場があります。なぜか今でも生き残っている、本当に小さな中小企業です。お爺さんとその息子の二人だけでやっているのですが、お爺さんは通常の仕事を息子さんに引き継いで、別の仕事をやっています。
 息子さんは、大手の会社の下請けで、椅子を作る仕事を請け負っているそうです。しかし、その請け負いだけでは、近年仕事が減る一方だそうです。そこで、お爺さんは、『座りやすい椅子』を自ら考案して、それを作って、別の販売会社やお店に売っているそうです。長年いろんな椅子を仕事で作ってきただけあって、お爺さんの作った椅子はよく売れるそうです。評判がよくて、注文がお店の方から来るほどになったそうです。
 この『座りやすい椅子』の創作は、誰でもいつでもやってみて確実に成功するとは限らないかもしれません。でも、ものが売れない時代の一つの発想として悪くないと私は思います。私の父は、仕事のための冶具(ものを作るために別に作る道具)を作ることはあっても、自ら発想して独自の製品を作ることはありませんでした。他人が持ってきた仕事を請け負うほうが、お金になるし労働力を売るには効率がいいからです。しかし、他人が仕事を持ってくるまで、待っていなければなりません。好景気の昔と違って仕事が減ってくると、受身の職人は仕事を続けていくことができなくなります。
 日本の町工場(零細企業)とその『ものづくり』がつぶれてしまった原因の一つは、そこにあったと思います。契約栽培は別として、農業のように、何が売れるかを自ら考えて、何を作るかを考えることは重要です。直売も、できれば必要です。これに限らず、どうやって、ものを売っていくかを考えないと、ものを売ることはできない時代になってきたと言えます。例えば、売る物の品質を悪くしないで製作コストを下げるにはどうすればいいかも、他人から言われる前に自らすすんで考えなくてはいけなくなるかもしれません。
 このように、ある町工場の『座りやすい椅子』の発想と製作は、自営業をしている私にとってはとても参考になる話なのです。